西部劇の魅力(10):Soldier Blueとアメリカの精神

アメリカのメネンデス上院外交委員長は、安倍総理大臣が本日の終戦の日靖国神社参拝を見送る意向について、「未来を見据えた重要な決断だ」と評価したそうです。
同氏は、先月末にアメリカ上院で採択された、沖縄県尖閣諸島周辺や南シナ海での中国の行動を非難する決議案の提案者の一人で、中国の、東アジア、東南アジア周辺での軍事的拡大志向を懸念されている方です。

メネンデス氏は、靖国問題を政治・外交問題として焚きつけようとする日本のマスコミ、野党、批判されにくい分野でプレゼンスを図ろうとする知識人達に呼応しているわけではないようですが、このような従来からの硬直したともいえる観点ではなく、全く異なる論理展開をしていかないことには、アジア周辺に平穏さが訪れることはないように思います。(アジア以外にも言えることと思いますが)

立場や地位にとらわれると、精神は硬直しますが、アメリカの精神はずっと硬直してきているように見えます。
もっとも、そのおかげで、日本などは他国の脅威に曝されなくて済んできたという恩恵を受けてきたわけで、日本のようにアメリカに寄りかかろうとする国が多いほど、アメリカの精神も硬直しやすい状況になるという、気の毒な面もあります。

ともあれ、メネンデス氏のような良きアメリカ人達と、今後も友誼を深めていくことは、とても大切なことと思います。

ところで、アメリカの現在の対外政策について、ネイティブアメリカンに対して行ったような節を感じる場合があります。
アメリカは冷静な時は頼りがいのある正義感に満ちた人道的な国家に見えますが、
自分達の利権にはとりわけ執着心が強く、
共産化によるアメリカの包囲網等には敏感で、
最近はイスラム化へも神経過敏なようで、
その思考回路に危うさを感じる時があります。

ベトナム戦争や中東への干渉など、問題は複雑で単純な見方はできませんが、アメリカの怖い面が時折垣間見られるように思います。

そして私達に直接の関連があった事例をみても。

日本の敗戦は濃厚であり、降伏は時間の問題だったでしょう。それなのに、なぜ原子爆弾を投下する必要があったのでしょう。

歴史の教科書や、識者の口からも、投下により降伏を早めたことで犠牲を少なくしたような言いわけがましい理由を耳にします。
実際に原爆の犠牲になった方達の数と比較するのが、原爆の投下がなかった時に敗戦までの期間が延びたことによる犠牲者の想定数だって?
頭の使い方の方向、おかしくない?

架空の数字と実際に亡くなった方達の実数を比較して、それで原爆投下が止むを得なかったという論理って。

100歩譲ったとして、想定犠牲者の数字を、仮に緻密に当時の日本軍や敗戦後に学者がシミュレートして試算したとしても、アメリカの戦術展開により、数字は、がらっと変わるでしょうから、そんな数字は意味がないと思います。

何百通り、何千通りと、日本の対応(軍部の主戦派や戦争終決派、天皇、政治家等々の要素)とアメリカ軍やアメリカ政府、その他ロシアやイギリスの思惑、中国の覇権争いの要素等々、あらゆる場合を想定して、各パラメーターを変えて、シミュレーションするならば、また違ってきますが、私達の頭は柔軟に戦中の条件を仔細に研究することを、バイアスをかけてタブー視していますので、冷静に客観的研究は期待できないと私は思っています。また、それができれば、開戦もしなかったでしょうし、戦力を拡散する戦い方はしなかったでしょう。

それに、本土での徹底抗戦といっても、アメリカに制空権を握られていた日本には、既に物理的な抗戦能力はなかったといえるでしょう。原爆など落とさなくても、京都を爆撃すれば、日本は降伏したのではないでしょうか。京都御所が燃え上がるのを見れば、いかに感受性の鈍い軍人でも、東京大空襲で外したポイントを次は狙われると思うでしょう。
そこで、一層頑なになる抗戦派と和平派との争いが生じるかもしれませんが、原爆によらずに、被害を少なくしてとどめをさす方法をアメリカは取れたと思います。

原爆投下の理由付けの一つに、ロシアを抑えるためということも良くあげられます。
ロシアは日本との条約を一方的に破棄して日本に侵略しようとしますが、当時のアメリカが、ロシアに釘をさせなかったとは思えません。
原子爆弾を用意していたのですから、日本を降伏させるため、例えば人口の少ないロシアに隣接する島に原子爆弾を投下して、その威力を日本人に知らしめる予定だから、近くをロシア船は航行しないようになどと、ロシアに釘をさすこともできた筈です。その後の二国間の陣営の冷戦においても、優位性を発揮する材料にもなったでしょう。

実際に落としたのは、軍事施設ではなく、子供や女性等民間人の住む都市、広島、長崎でした。後年の犠牲者数を入れると約三十数万人の殺戮にもなります。サンドクリークの大虐殺の比ではありません。

日本が降伏してからでは、原子爆弾の投下はできません。降伏する前にさっさと行う必要があったのでしょう。

広島に投下した原子爆弾はウラン型爆弾です。
長崎に投下したのはプルトニウム型爆弾です。
アメリカの調査団は、広島と長崎で、その爆弾の威力をつぶさに調査して本国に戻っています。
本国では、ウラン型とプルトニウム型の詳細な比較を行い、コストパフォーマンスはどちらが有利かなどという成果発表を行うつもりだったのでしょうか。

どうも、P→D→C→A のサイクルが見えてくるような気がします。
今のところ、実戦における次のDがないのがせめてもの救いですが。

ただし、アメリカに見る危険性は、アングロサクソン特有なものではなく、少なからず私達にもあると考えるべきなのでしょう。


さて、ウイキペデイアには、こんな表現で、サンドクリークの虐殺への経緯が記されています。一部を、そのまま引用します。

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コロラド州ではこの虐殺に先駆けて、白人の大集会が開かれ、有志の寄付によって「インディアンの頭の皮の買い取り資金」として5000ドルが集まった。「耳まで付いている頭の皮」なら、25ドルの高額な賞金が設定されたのである。金鉱に群がった侵略者たちにとって、周辺のインディアンはフロンティアを害する障害にすぎなかった。「野蛮なインディアンの絶滅」は、入植者の悲願だったのである。

コロラド準州の近辺でも、インディアンと白人侵略者との激しい戦いが続いていた。両者ともに、ぞっとするような残虐なやり方で死者の身体が損傷され、互いの憎しみ合いは果てしがなかった。シャイアン族の襲撃は、ことにデンバーの白人たちを恐れさせていた。

インディアン絶滅キャンペーン[編集]1863年、「事件」の前年、デンバーの地元新聞『ロッキー山脈ニュース』は、州を挙げたインディアン絶滅キャンペーンを始めた。この年3月、『ロッキー山脈ニュース』の編集者は社説でこう書いた。

やつら(インディアン)は、この地上から消し去るべき、自堕落で、宿無し同然で、残忍で恩知らずな人種である。

コロラド議会では、27人のうち10人が、インディアン根絶の強行を主張していた。翌1864年コロラド州選挙が行われる年だった。金鉱を狙ってコロラドに押し寄せる白人入植者は、「インディアン絶滅」を掲げる政治家たちを圧倒的に支持しており、ジョン・エバンズ知事を含む『ロッキー山脈ニュース』に関連する政治派閥は、「インディアン絶滅」の政策が明らかに支持率を上昇させるカギだと認めていた。

翌年の総選挙まで、『ロッキー山脈ニュース』は「インディアンの脅威」を書きたて続けた。「インディアンが陰謀を企んでいる」というでたらめな噂は、「事実である」との評判だった。白人とインディアンの間のどんな些細な諍いでも、「インディアンによる大虐殺」として報告された。

2人の白人兵士が死んだ、インディアンと兵士との諍いの後、コロラドの軍隊は、25人のインディアンを殺すことで報復した。デンバー市民と軍隊は、2人の兵士の弔いに聖歌を歌った。25人のインディアンを大量虐殺した陸軍の指揮官はこう述べている。

私は現在、インディアン撲滅のためには、結果として生じなければならないこの部族との戦争しか他にはないと信じております。

条約を破った白人の不法侵入に対するインディアンの抵抗によって、あちこちで小競り合いが続いた。女・子供を含むインディアンの集団が、コロラドの白人自警団員や軍人によってあちこちで殺された。『ロッキー山脈ニュース』は1864年8月にこう宣言した。「入植者と軍は、彼ら、彼らの住居、女達、およびすべてのために、(インディアンを殺しに)行かなければならない」

この夏、白人入植者の家族がインディアンに殺された。エバンス知事は、緊急宣言を出した。民兵連隊が結成され、彼らは見つけ次第、すべての敵対的なインディアンを殺す許可を与えられた。知事は彼らに補償を約束した。「馬、その他資産が何であれ、彼らは政府によって支払いを受けることが出来ると約束する。」

州政府が「直ちに」、「すべての」インディアンの殺害を認可したこの宣言によって、「馬」と「その他の資産」を得るために、入植者たちはインディアンを無差別殺害し、彼らが「敵対的だった」と主張した。さらに『ロッキー山脈ニュース』は、「赤い悪魔の根絶」キャンペーンを強化し、和平派のインディアンも交戦派のインディアンも、区別するのをやめた。エバンス知事はもう一つの発言を行った
た。

あらゆる証拠において、平原インディアンのほとんどは実際に敵対的だった。したがって、市民が彼ら全員を「追いかけて、殺して、破壊する」ことは、市民として当然の行動である。

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結末が分かった上で、あれこれ言うのは簡単です。
後出しジャンケンと分かっていても、自分の心に忠実に物を言うことは重要で、それがなければ何も始まりません。
しかし、そこで分かった気になっても、例え、そこで問題を共有できたにしても、人類の叡智とはならず、その後、いくらでも同じことを繰り返すでしょう。

当時の時代の空気を吸っていて、状況を俯瞰することなく同じ平面上で生きていたとしたら、自分は果たして白人に感情移入をしただろうか、それとも、ネイティブアメリカンに感情移入をしたのだろうかと考えたときに、どちらとも断定する自信はありません。