西部劇の魅力(11):Soldier Blueの世界

頭の皮を剥ぐという行為は、ネイティブアメリカンに特有の習性だと、私は子供の頃信じていました。

西部劇の世界で見たように、それが戦果を誇るものであったり、自分達の勇気と栄誉を周囲に示すものであったりという、積極的な評価を得る行為と認められていた部族も、一部にあったのかもしれませんが、

ウィキペデイアには、

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『そもそもは18世紀前後にメキシコやイギリス、アメリカ合衆国の政府機関が、女・子供を問わず敵対勢力のインディアンやヨーロッパ人を殺させて、その証拠として頭の皮を懸賞金をかけて募集した歴史が起源となっている。

頭皮剥ぎ自体はインディアンから始まった固有の習慣ではなく、古代ヨーロッパにも存在した。また、頭の皮を剥ぐことと命を奪うこととは別であり、頭皮を剥がされた者が生き延びることはよくあり、皮を剥がれた跡の禿は、インディアン戦士にとって非常に不名誉なものとされた。』

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とあります。


前段の文章では、頭皮を剥ぐ行為を、先に白人がネイティブアメリカンに行ったため、ネイティブアメリカンは自分達の仲間が白人に頭の皮を剥がされた報復として、白人に行うようになったと取れます。

しかし、後段の文章では、頭皮を剥ぐという野蛮な行為は古代ヨーロッパで行われていて、インディアン固有の習慣ではないとしています。この比較をすることで、アメリカ大陸では白人とネイティブアメリカンのどちらが先に行っていたのかが判然としなくなるような印象を受けます。

いずれにしても、私が子供の頃思い込んでいたことは、当時の西部劇による情報操作による偏見と言えます。
こうした偏見が当たり前のように、多くの西部劇が作られてきましたが、ソルジャーブルーができるまで、こうした製作側の姿勢が大きく問題になることはなかったということなのでしょう。
史実を紐解こうとすれば、いくらでも資料を目にすることができるはずなのに、ネイティブアメリカン達の声を掻き消す力があまりにも大きかったということなのでしょう。

アメリカのネイティブアメリカン達への差別は、今尚続いているようで、アメリカは歴史は風化するものだということを、良く知っているのでしょうか。
今後100年もすれば、その史実そのものを消し去ることができるとでも考えているのでしょうか。

アメリカの建国の精神が、嘘と抑圧と虐殺の上に成り立っているのでは様にならないでしょう。歴史から抹殺したいという気持ちは分らないではありません。

アメリカはネイティブアメリカン達の問題に正面から対峙してこなかったように思いますが、それは、非戦闘員の殺戮に他ならない、東京大空襲や、広島、長崎への原子爆弾投下の事実から目をそらそうとするのと、根が同じように思います。
パールハーバーの奇襲を事前にアメリカは把握しており、自国民に逃げるよう指示せずに見殺しにすることで、日本への戦意を煽り、聖戦としての理由付けを行ったという説もありますが、何だかとても信憑性がある説に思えてしまいます。

また、開戦前夜の空気が読めずに、送別会か何かの飲み会にハワイの外務官僚が当番も設けずに出かけてしまったため、日本からの宣戦布告を英訳する時間が足りず、戦闘が始まった後にアメリカ政府に渡すという失態を起こし、その後日本がだまし討ちをした卑劣な国民と、貶められることになるわけですが、都合の良い理由をアメリカに与えてしまったのは、つくづく残念な事と思います。

しかし、この理由ともいえない理由を言い訳に、アメリカは戦争の犯罪から逃げているといっても過言ではないように思います。


さて、サンドクリークの虐殺について、ウィキペデイアの記述が、その頃の空気を捉えているように思え、大変長い引用ですが、一部をそのまま転載します。

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和平会談[編集]
虐殺直前の9月28日にはデンバーではシャイアン族、カイオワ族、アラパホー族の酋長達との和平会談が開かれていた1864年9月28日、州を挙げた「インディアン皆殺し政策」が進められる中、コロラド準州デンバーにある米軍のウェルド基地で、周辺のシャイアン族やカイオワ族、アラパホー族インディアンの酋長と、コロラド準州のジョン・エバンズ知事、ジョン・チヴィントン大佐ら、同地の白人高官との和平会談が開かれた。

酋長たちは一台の馬車でデンバーの町にやって来た。周辺では苛烈なインディアンと白人の殺し合いが続いていたが、デンバーの白人たちの何人かは家の外まで出てきて彼らを出迎えた。シャイアン族からはモケタヴァト(ブラック・ケトル)、ホワイトアンテロープ、ラーンベアー、リトルウルフ、トールベアーの5酋長が出席した。

和平協議では、インディアンによる襲撃について白人側から抗議が出され、シャイアン族の酋長の一人ブラックケトルは白人たちに対し、「自分は心から白人との平和を願っているし、血気にはやる若い戦士たちを抑えられなかったことは残念に思う。今後そういうことのないよう、出来るだけ努力する」と答えた。

彼ら酋長たちは、彼らのバンド(集団)を説得して、実際に以後アーカンソー川沿いの米軍のライアン基地近くへ異動させた。駐屯地の白人指揮官らは彼らに食糧を与え、「どこか遠くの狩りで暮らせる場所へ移れ」と命令した。ブラックケトルの属するシャイアン族の集団は、サンドクリークの湾曲する流れのそばにティーピーを建て、野営を築いた。ブラックケトルとホワイトアンテロープらは彼らの部族員と協議を行った。交戦派の意見が優勢だったが、一部は和平派のブラックケトルに賛同し、この和平派の野営に残った。



11月29日の寒い早朝に、チヴィントン大佐率いる800人の陸軍騎兵部隊が、ブラックケトル達の和平派のシャイアン族・アラパホー族の約100張りのティーピー野営に近付いた。サンド・クリークには氷が張り、一面は雪で覆われていた。野営では女たちが働き始めていた。騎兵部隊は一時休止し、「敵」の数を数え始めた。

野営にいるのは女・子供がほとんどだった。男たちはバッファロー狩りに出かけていて留守だった。シャイアン族と白人の混血のロバート・ベント(ウィリアム・ベントの息子)は、無理やり案内役を命じられて米軍に同行していたが、「このとき野営には600人のインディアンがおり、男はほんの35人の戦士と老人、合わせて60しかいなかった」と後に報告している。

このバンドの男達は、「敵対的ではない」と示すために、自主的に武装解除していた。彼らはリヨン砦で、砦の指揮官に狩猟用の武器以外を提出していた。しかし、チヴィントンは彼の軍隊に、シャイアン族の野営への一斉射撃を命じた。ジョージ・ベントは、後にこう証言している。

チヴィントンと彼の5つの大隊がその朝、シャイアン族の村にやって来たので、野営を訪問していた2人の白人は、焼いたバッファローの皮を棒に結んで、これが和平派の村であることを軍隊に知らせるため、それを振りまわした。しかし彼らは、一斉射撃を浴びせられた。

そこで、年とったブラック・ケトル酋長は、白旗をティーピーの柱に結んだ。そして、その上に、彼はBIA(インディアン管理局)局長からもらった星条旗を結んだ。彼は、彼の家族を集めた。彼はそこが敵対的なインディアンの野営ではないことを米兵に分からせようと努力して、彼は再び白旗を持った。彼は「おびえていない」ことを示すために、彼の同胞に大きな声を挙げ続けていた。私は思い返していた。「この野営は米軍の保護下にあり、ここにいることは危険ではなかったはずだ。」

ブラックケトルは自分のティーピーに星条旗を掲げ、その下に白旗を掲げた。しかし米兵は突然、インディアンたちの馬を蹴散らし、発砲した。ブラックケトルはインディアン戦士と白人の間で小競り合いがあったので、見せしめでこのような示威行為に出ているものと思い、部族民に平静にするよう呼びかけた。しかし、米軍は川向こうから大砲を、彼らの野営に向けて撃ち始めたのである。

チヴィントンはこの無差別虐殺の命令として、兵士たちにこう叫んだ。上述したように、この台詞は彼の軍隊のフレーズだった。

殺せ! どいつもこいつも頭の皮を剥げ。大きいのも小さいのもだ。シラミの幼虫はシラミになるからな!

騎兵と歩兵がこのシャイアン族とアラパホー族の野営に突入し、男も女も子供も問わず、無差別銃撃を浴びせた。人々は散りぢりになり、走り始めた。チヴィントンは大砲を、最初にインディアンのうろたえて右往左往している集団に向けて発射すよう命令した。ホワイトアンテロープ酋長は英語で「やめろ! やめろ!」と叫んだが、意味がないことを悟り、腕組みをして矢面に立った。これを見て、白人たちは彼を射殺してしまった。

女子供は泣き叫びながら後の砂山の方へ逃げた。丸腰の戦士たちは抗議しながら川上へと退却した。ブラックケトルはしばらくティーピーのそばにとどまったが、やがて妻を連れて退却した。彼の妻は9発も撃たれたが命を取り留めた。白人たちはブラックケトルを仕留めたと思い、そう報告したが、実際には彼は生き延びた。

白人による無差別銃撃は、午後になっても続けられた。シャイアンの戦士たちは交戦を試みたと言うが、人数も武装も足りず、戦闘と呼べるものではなかった。老若男女を問わない皆殺しだった。ロバート・ベントは、後にこのように報告している。

数少ない男たちは、全くの丸腰だった。女たちは自分たちと子供たちを隠すために、死に物狂いで土手の砂を爪で引っ掻いて穴を掘っていた。私はインディアンたちを保護しようと、そちらに近付いて行った。

土手の陰に、5人のインディアンの女たちが隠れていた。軍隊が近づいてくると、彼女らは走り出て、自分たちが女であることを知らせようとしたが、兵隊たちは彼女らを撃ち殺してしまった。 3〜40人の女子供が穴に隠れていたが、女たちは6歳くらいの女児に白旗を持たせて送りだした。この女の子が2、3歩足を踏み出したか踏み出さないかのうちに、彼女も射殺されてしまった。穴の外に4、5人女がいて、慌てて走り出した。彼女らは全く抵抗の気配を見せなかった。殺されたインディアンたちのすべてが、米兵によって頭の皮を剥がれていた。

一人の女は腹を斬り裂かれて、胎児を引きずり出され、その胎児は脇に転がっていた。これはスーレ大尉も事実であると私に証言している。私は何人か、武装した幼い子供が母親と一緒に射殺されるのを見た。「戦い」のすぐ後に、私は地面を調べてみた。

私は、死んだインディアンの数を400〜500人だったと判断しなければならない[2]。ほとんどすべて、男も女も子供たちも、頭の皮を剥がれていた。私は、不具にされた1人の女性に会った。どの体も恐ろしく切り裂かれており、頭蓋骨が叩き割られていた[3]。私は彼らが射殺された後、このようにされたものと判断している。指輪を取るために、指が鋸で切り取られており、また男だけでなく女も、いくつかの体が兵士によってのこぎりで切断されていた。次の朝、私は男の子がインディアンの死体の間でまだ生きているのを見た。私は、第3連隊の少佐がピストルを取り出して、この男の子の頭を吹き飛ばすのを見た。私は、一部の男たちが指輪を奪うために死体の指を切り落とし、銀の装飾品を奪うために、死体の耳を切り落しているのを見た。

私は、先ほどの少佐と仲間たちが、夜の間にインディアンたちの頭の皮を剥いで、埋葬された死体を掘り起こして装飾品を奪うのを見た。私はインディアンの女が、殺される前に頭を打ち砕かれるのを見た。次の朝、彼らが死んで固くなったあとで、この男たちはインディアン女の体を引っぱり出して、不作法に足を開いていた。私は男たちが「女たちの女性器を切り取ったが、自分では見なかった」と言っているのを聞いた。

私は、何人かの男たちが、殺したインディアン女から女性器を剥ぎとったあとに棒を突っ込んだことに抗議した。女・子供の死体は、見るもおぞましい方法[4]で切断された。私は、わずか8人しか見ていない、それ以上はとても正視に堪えなかった。彼らは、とてつもなく切り刻まれていた。...彼らは頭の皮を剥がれて、むごいやりかた...で切り裂かれていた。ホワイトアンテロープ酋長の死体は、鼻、耳、男性器を切り取られて転がっていた。一人の兵士が、「この酋長の陰嚢で煙草入れを作るのだ」と言っていた。女たちは女性器をえぐり取られていた。

ありとあらゆる略奪が、彼らの身体に加えられた[5]。彼らは頭の皮を剥がれた、彼らの頭は打ち砕かれていた。男たちはナイフを使って女性を切り開き、小さな子供たちは、銃尻で頭を潰されて脳味噌を飛び散らせていた ...彼らの体を損壊したやりかたは、どんな言葉でも言い尽せない。それはこれまで見たこともないものだった。女は全員、バラバラに切断されていた... まだ生まれて2、3ヵ月の乳飲み子から戦士まで、すべての世代がそこに転がっていた。

兵士たちは指輪を奪うために指を切断し、子どもも合わせた男性の陰嚢は「小物入れにするため」切り取られた。男性器と合わせ、女性の女性器も「記念品として」切り取られ[6]、騎兵隊員たちはそれを帽子の上に乗せて意気揚々とデンバーへ戻った。私は1人の兵士がインディアンの女の心臓を抜き取ったと言っているのを聞いたが、彼はそれを棒に貼り付けていた。



(さて、酋長のブラック・ケトル温厚な性格だったようです。)


ブラック・ケトルはこのような虐殺を受けたにもかかわらず、白人との和平の望みを捨てなかったが、それに不満をもつシャイアン族は当然多数派を占めた。

12月の末には、シャイアン族とスー族とアラパホー族の3部族の戦士2000人がレパブリカン川そばで協議を開き、白人侵略者に対する徹底抗戦を決定した。その一人はこういった。

我々は何のために生きていかねばならないのか? 白人どもは我々の国を奪い、我々の狩の獲物を殺した。それだけでも飽き足らず、妻や子までも殺してしまった。これ以上おとなしくはしておられない。我々は死ぬまで戦うのだ。

この決起に際して、シャイアン族は命を捨てて白人と闘う集団、「犬の戦士(ドッグ・ソルジャー)」が立ち上がった。1月、インディアン戦士団はランキン砦の騎兵隊をおびき出し、45名ばかりの兵士を殺した。彼らは白人兵士に、彼らがされたのと同じ行為でお返しをした。つまり、兵士の死体をズタズタに切り裂いたのである。また砦周辺の牧場を襲って白人を殺し、牛馬を奪った。

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