精神性と利便性の齟齬

ノラ・ジョーンズの新譜、
『リトル・ブロークン・ハーツ』の一部を試聴してみました。
とても良い感じに思いました。

ノラの実力と敏腕プロデューサーの組み合わせですので、
水準は高いと期待はしていましたが、
4月25日の発売が楽しみです。


自分の音楽の聴き方も、以前とは様変わり。
車にデータ保存して、運転中に聴くか、

家でiPodで聴くかです。

ここ何年か、家の中でじっくり音楽を聴くということがないような気がします。
味気ないような気もしますが、、


音楽ソースを手に入れるのに、今はとても便利になって、
昔の曲で買いそびれた曲は、iTunes Storeになくても、
YouTubeで検索すれば、アップしてくれている人が大概います。
昔、廃版になっていたリン・アンダーソンの曲がどうしても聴きたくて、
東京の大手レコ店を探しまわったのを懐かしく思います。

今は手間暇かけずに、好きな物をすぐに取り出すことができます。
しかし、今の自分が音楽的に昔と比べて満たされているかと言えば、
そうとも限らないように感じるのです。

こんなに昔と比べたら条件が良い時代に生きていて、
なぜ充足感を感じられないのか考えてみると、いろんな場面で感じることですが、
今現在が、「間」がなくなっているからに思えて仕方ありません。

私がここで言う「間」とは、大変説明しにくいのですが、行間であったり、
詩の中の静寂であったり、沈黙であったり、「・・・」といった、
言葉にならない時の流れです。

私は、「間」が自分との対話の時間であったり、
自己形成をしている時間ではないかと思っています。


こうした精神性とも思える「間」が現在社会になくなっていることが、
利便性ははるかに高くなっている今の社会に、満足感を感じられないように思うのです。

結局は、時代に自分が合わなくなってきているのかもしれないと、
寂しい気持ちにもなります。


葵区竜南から