踏まれる痛み

足を踏まれている人の痛みは、なかなか踏んでいる人には分からないということは、自分でも触れることの多い話題です。

自由主義国家という名目に安穏としていられる、特に日本のような国では、言論の自由表現の自由を、何を言っても良い、どんな表現をしても良いなどと思い込み、この自由を、あらゆることからフリーであるかのように振る舞い、物議をかもしだす場合があります。

客観的な視点なしでの抑制が、国の方向性を危うくしていると感じることも多い昨今ですが、言うべきことを抑制したり、反対に、自制すべきところを品のない過激な発言をしたり等、この種の問題にあっては、日本では、どちらの場合も甘えと自立心のなさを起因とするところが多いように思います。


さて、人が極めて真面目に取り組んでいることや、真剣な思いで臨んでいることに対して、お気楽で謙虚さのない発言をされると、大概の人は憤慨するでしょう。
それが敬虔な気持ちで、自分の人生と向き合う類のことでしたら、なおさらのことです。


「Innocence of Muslims」への反発、アメリカへの反発が世界で広がりつつあります。反米が、反欧へと20カ国以上に広がってしまったようです。

オバマ大統領は「他人の宗教を侮辱する行為を容認しない」と、襲撃事件の発端となった映画を批判しました。


表現に対する規制は、その時代の社会通念と密接に関連がありますが、
チャタレイ夫人の時など、その当時でも何が問題なのかと思う人も多かったと思います。
しかし、この表現により、どんな人が傷つくかという視点と自制は、人のたしなみとして持ちたいことだと思います。


踏まれている人が踏んでいる人に分からせるために、立場が逆転しないと想像できない人が多いので、時には思い切り踏み返してやる必要もあるでしょうが、日本の国内では踏み殺すほどの攻撃に遭う場合は少ないので、そのことだけでも自由主義国家日本の良さを感じます。





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