イジメ

大津市のいじめ自殺事件の加害者の一人が、京都の中学校に転校してからも、集団暴行事件を起したそうです。

事態をを知れば知るほど、加害者や加害者の親、担任をも指弾したくもなりますが、お前は完全に被害者側の論理で、物を裁けるのかというと、私は、ちょっと待てよと考え込んでしまいます。


いじめ問題は周囲の諸条件により、被害者と加害者が逆転したり、そのパワーバランスは一定ではありません。

いくつものパラメーターの変化により、いじめの現象は変わります。


私の中学時代の3年間、自分の身の周りでも程度の小さなイジメは珍しくはありませんでした。

遊びやジャレアイ、自分を認めてもらいたいための表現や、コミュニケーションの方法が稚拙なため。他と違っていることへのカラカイ、拒絶、排斥。生理的な嫌悪感。性格。
きっかけは、他愛ないこと、何気ないことが高じていじめになっていくことも少なくありません。

いじめが大きくなりそうになるとパワーバランスが働き、別なワルや腕っ節の強い優等生が止めに入ったりします。

生徒の動向にアンテナを張っている先生は、いじめがどういう時間帯に、どういう場所で起こりやすいかを把握していますので、生徒達を見ていて何か感じるところがあると、先生が不意に現れたりします。

いじめられている被害者があまりに不甲斐ないと、相手によっては、いじめられている生徒に、周囲の第三者である生徒が、しっかりしろと活を入れることもあります。もちろん、怒鳴られて落ち込みそうになる生徒には、慰めてやる等の配慮は、当時の私達は当たり前に行っていました。

これは、別に見て見ぬ振りではありません。私達も他にやることがありますので、クラスの小競り合い程度に、そうそう付き合ってはいられません。
多少の小競り合いは常態だと、当時の私達は考えていました。

また、たびたび不甲斐ない態度でいじめられているのを見れば、その情けない姿勢に、とことんやられてしまえ位に思うときもありますが、その前に、そんな弱い奴をいじめてばかりいるクラスメートに、いい加減にしろと憤りの矛先は向かいました。

この頃の女子生徒は男子よりも社会性に富んでいますので、いじめる側には手厳しい視線を送ります。
また、どうして助けてやらないのかと、女子生徒から文句を言われることもありましたが、助けるべき生徒が動かないことにも厳しいのです。

自分のクラスの場合、このパワーバランスが作用し合うことで、極端な結果が生じることを防いでいたのだと思います。
パワーバランスがある程度まとも(他所の中学校から比べれば酷い学校に映るのかもしれませんが)だったのは、価値観が単一になりにくい環境があったからのような気がします。
それはたまたまだったと思います。

パラメーターの因子の種類、大きさや、因子と因子との相関関係の比率が変わっていれば、また違った構図になっていたでしょう。

このパラメーターの構成比を、イジメが生じないように、人為的に変えるのは大変なことです。
それはある意味人生を否定することになると思います。

パラメーターの非常に大きな因子は、戦後教育の問題や、国防を他国任せにしてきて真剣に向き合ってこなかったこと等々、私達の背骨が溶けかけている要因でもありますが、この問題はあまりにも大きなことで、一朝一夕には解決できません。変える必要がないという人達もたくさんいます。

大きなことが変えられないで立ち止まってしまうのではなく、
現在苦しんでいる子供達を支えるため、全く別な視点で、いじめが起こりにくい体制、いじめが起きたら、それから逃れられる体制を考えていく必要があると思います。





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