統治の心(3)

エスが荒野で40日間断食したことを偲び、復活祭の前日までの40日間を、イエスが身を置いたのと近い状態に自分達も身を置き、精進潔斎しようというのが四旬節にあたります。

節制と禁欲の日々が続く四旬節の前に、肉を食べてしまおうという、謝肉祭がカーニバルと呼ばれるようになったとも言われます。

ブラジル、リオのカーニバルは、今では世界的な観光イベントになっています。
私は初めてリオのカーニバルというものがあると知った時、カーニバルの最中に、毎年多数の死者が出るというのを聞いて、そんなお祭り全然楽しくないではないかと思ったのを覚えています。
子供心に自分の想像をはるかに超えていると思いました。

半裸の若い女性が山車に乗ったり、サンバを踊っている様は、とても刺激的に感じられ、ブラジルという所は随分開放的なんだなというイメージを、それ以降持つようになりました。
その時はファベーラの存在も、ブラジルに奴隷制度があったことも知りませんでした。

カーニバルの踊り手の多くはファベーラの住民達です。ファベーラごとに山車が出ます。

ファベーラの住人になって日の浅い男女が山車に乗り、自分達の裸を晒して踊り明かすことで、ファベーラの一員であることを、ファベーラの既住民から認められるという意味合いもあったようです。


ブラジルでは、先住民、植民当時のポルトガル系、アフリカからの黒人奴隷の子孫、ポルトガル以外のヨーロッパ、中近東、日本を中心としたアジア諸国からの移民等が暮らす、多民族国家です。
日本からブラジルに移住した方々の苦労話を耳にする機会も多いですね。


ところで、違法で住みついたファベーラの住民・住居を一時は撤去しようとした国や自治体ですが、今ではその生活基盤や社会サービスの改善を行い、ファベーラに住む人達の生活水準を向上するような方向になってきているそうです。

本来、国や市が整備するところを、不法入植と言っても自分達の力で街を作ってきたわけです。破綻国家に陥りそうな時もあり、財政的余裕がなかったこともあるでしょうが、ファベーラを整備すべき予算を取らずに、特権階級に富を偏在させるようなことはなかったのでしょうか。

ブラジルに限りませんが、とかく貧困層というと発言力が小さいため、分配の原理を公平に行うということからモレテしまうことが多いように思います。
それは、自分の待遇を改善しようとしている人の目に、奴隷の存在がまるで映らないかのようです。
貧困であるのは、その理由が、歴史があるものですね。

ブラジルの踊りや音楽、リズム等に、その過酷な歴史を抱えながら、陽のエネルギーを感じさせる、深みを感じます。
清濁併せ呑んで前に向かっていく力強さに凄味も感じます。