西部劇の魅力(6)

ローラさんが『大草原の小さな家』の原体験をされていた頃、
ローラさんの住んでいた周辺では、ネイティブアメリカンはどのような存在だったのでしょうか。
昨日の初版本の記述の訳を再度引用します。

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そこでは野生の動物たちが、見渡すかぎりどこまでも続いている牧草地にでもいるかのように、自由に歩き回って餌を食んでいました。どちらを見ても人間はいません。その土地に暮らしていたのはインディアンだけだったのです。

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この文章からしますと、ネイティブアメリカンしか住んでいなかった土地に白人達が家を建て街を作り生活をするようになったことが分かります。

恐らく、それまで白人のいなかったその地に白人が入植して街を作り、自分達の土地のように振る舞うようになっても、ネイティブアメリカンは大人しく、自分達の生活・文化を守って、入植者たちの邪魔にならないように生きていたのではないかと思います。

ローラさんから見たら、人間としてカウントしないような存在、特別に分類するような存在ではなかった。
他方、母親のキャロラインさんや父親のチャールズさんは、その存在を十分意識していた訳なのですが。

ネイティブアメリカンの生活領域に白人たちがどんどん入ってきて、両者が接する機会が増えてくれば、軋轢は生じるでしょうし、他所者に傍若無人に振る舞われたり、自分達のことを汚らしいものを見る目で見たりされれば、ネイティブアメリカンは面白くはないでしょう。しかし、騎兵隊とネイティブアメリカンとの戦闘が生じるような風景は、『大草原の小さな家』にはみられませんでした。


日本人は部屋の中で魚を焼くから部屋を貸したくないという大家さんがアメリカには多いなどと、昔は聞いたことがありましたが、生活様式、風俗の違いにより相手に嫌悪感を抱くということが生じる場合があります。
白人たちは文化の違いから、ネイティブアメリカンの風俗には馴染めないところがあったでしょう。
特に育ちの良い人達は(女性は特にその傾向があると思いますが)、意味のわからない言葉を大きな声で発している人達について、ネイティブアメリカンに限らず忌避するようなところがあると思います。
皮膚の色も白くはなく、私達日本人と同じ黄色ですし。


今の私達は、世界の地域で暮らす人達の風俗、例えば服装などは、長い年月を経てその土地の気候を考えた結果、過ごしやすいように工夫されて作られているのを知っていますが、世界観が狭く比較的均一な文化・文明の中で育ってきた人達には、自分達と違った衣装や装飾品をつけている民族に出会った場合、単に奇異な感じでしか見られない場合が多いと思います。
自分達が理解できないことは、奇異で汚らしい、ケガラワシイ、野蛮といった感情で割りきろうとする場合があります。

中にはとても残酷に思え理解しにくい風習が残っている地域もありますが、それも理解を深めると歴史的理由がある場合が多いと思います。
その理由が、評価する時点では消失してしまっている場合には、悪習と感じるかもしれません。しかし、それだけをもってして、野蛮等とは決めつけられないものです。

世界の多くの民族が同時代性を共有できるようになったのは、ごく最近のことです。それまでは文明が開花し文化が息づいていく時間軸は、民族によって違いがあります。今でも世界の時間軸と自国の時間軸との圧倒的な違いに焦燥感に駆られる国のリーダー達もいることでしょう。
しかし、自分達の時間軸による文明の進化の尺度により、他の時間軸で生きている人達を批判することは自由ですが、その人達の大らかさ、人の良さ、無防備さにかこつけて、その生活領域を侵食していくのは、泥棒と大差がないように思います。
自分たち民族の間には徹底する人権意識を、時間軸の違う民族には適用しようとしない恣意性は、あまりに身勝手と思えますが、これを制御するのがいかに難しいかは、これまでの歴史の中にたくさんの事例をみることができます。