西部劇の魅力(7)

西部劇の魅力に夢中になっていた子供の頃、ネイティブアメリカンに捕まると頭の皮を剥がされるということは、子供達の中では半ば「常識」の部類に入る知識でした。

確か、彼らが集団で暮らしている住居近くに、捕らえた白人達の頭の皮が干してある映画の一シーンなどもあったと思います。
最初に、私は彼らがそうした行為をするということを知った時には、大変ショックを受けたのを覚えています。
何と恐ろしいことをする人間が存在するのだろうと思いました。
私にとっては、これも子供の間の情報レベルに過ぎませんが、『首狩り族』や『人食い人種』の類の残酷さを持ちながら、白人と渡り合うだけの知力を持っているのがネイティブアメリカンという認識だったのです。
自然、西部劇を見ている時に、感情移入するのは白人の方になります。

大分経ってからでした。
その程度の知識しか持ち合わせていなかった自分が、今まで自分が持っていた認識は全く違うのではないかと、ある映画を見た時に思いました。

自分が知っているつもりになっていたネイティブアメリカンは、虚像だったのではないかと。
中にはアパッチ族のように略奪を主とする部族もあったようですが、西部劇で見たネイティブアメリカンの行為の大部分は、白人側の情報操作に過ぎなかったのではないかと感じたのです。
その時にはまだ、ネイティブアメリカンの頭の皮を、白人達の間で、剥いだ人への報奨の意味も含めて高く買い取っていたという事実を私は知りませんでした。


一つの街で生まれ育って、そこで大半の人生を過ごしていく人々にとって、自分の人生観ががらっと変わるような出会いは数少ないと思います。
親、兄弟、親類縁者、地域の人達、学校の先生、友人、幸せでそれぞれ楽しかったり良い影響は受けていても、その地域が『健全』で、そこの人達が『良い』人達であればあるほど、そこに住む私達の頭にはバイアスがかかり、心は『常識的』『健全さ』に無意識にとらわれています。

人の行き来が少ない時代は、そうして『幸せな人生』を終えるということは、とても恵まれたことだろうと思います。多分、そこに住む人達は、一生の間に他の人に迷惑をかけたということは、成長過程でお世話になったという類のことを除けば、あまりないのではないでしょうか。また、迷惑といったところでその程度は、後日笑い話になるものが大半ではないかと思います。

私は、ある意味そんな平穏な田舎で育ちました。一冊の本との出会いや、一つの映画との出会い位が、刺激と呼べるものでした。

ところで、
頭の中で自分は他民族の人達に偏見を持つことはないという自信のある人が、例えば、人が入り込むことの少ない赤道に近い原生林の中で、見たことのない集団に出会ったとしたらどんな感覚にとらわれるでしょうか。

その集団は、乾燥させた木の皮で編んだ服を着用しています。
粗い皮の紐の網目からは浅黒く逞しい皮膚や下半身からは生殖器も見て取れます。
足にはやはり木の皮と獣の皮を織りこんだような履物を履いています。
上半身は人骨の一部に穴を開けて紐をつけたものを、全員が首からぶら下げています。肋骨のような太さの骨を1本ぶら下げている男も、それを3本も4本もぶら下げている大男もいます。
訳のわからない言語のようなものを、時にはひそひそと、時には大きな声を張り上げコミュニケーションを取っているように見えます。

私がこんな集団に出会ったら、周囲に撮影隊がいないかをまず最初にチェックするでしょう。その存在が見当たらないとわかるや、震えながら逃げだしているかもしれません。
「やあ、皆さん初めてお会いしますね!」などという挨拶を明るく切りだすことは、とても、考えにくいと思います。

しかし、自分達とは文明の度合いが異なり、ゆったりとした流れの時間軸に暮らしている人達だと考えてみれば、多少は冷静に観察する余裕も出てきそうです。

いかにも未開の住民のような服装に見える、乾燥させた木の皮を織りあげた衣服や靴は、暑くて湿度の高い地域では風を通して身を守る丈夫な衣服としては適切なのかもしれません。

人骨を首からぶら下げているというのはどうでしょう。
他部族と争った時に殺した相手の骨を戦利品として装飾に使っている?
いえいえ、そう考えるのは多分にアングロサクソン的な発想ではないだろうかと私は思います(決めつけ過ぎかもしれませんが)

一緒に過ごしていた親が亡くなり、親の形見として明確なシンボリックな存在として肋骨を自分の身につける風習を持っている民族だとしたらどうでしょうか。
身につけているのは、父親の、母親の骨。
病気で亡くなってしまった妻の骨。
不幸にも野獣に食い殺されてしまった子供が不憫で忘れられず、子供のシンボリックなものを肌身離さず身につけていたいという父親の思い。
果たして野蛮な民族でしょうか。

話は飛びますが、約3万年前に滅亡したと言われているネアンデルタール人は、埋葬の文化や芸術を愛でる文化を持っていたのではないかと考える学者もいます。
イラクのシャニダール遺跡の洞窟から、ネアンデルタール人の化石とともに数種類の花粉が発見されています。8種類以上の花の花粉や花弁が含まれているそうで、周辺に自生していたものではないものもあったそうです。これは、わざわざ、別な所に花を摘みに行ったと考えられます。
また、ネアンデルタール人は、体の不自由な仲間を助けて生活していた節もあったようです。
彼らには死者を悼む心があり、副葬品として花を添える習慣があったために遺体の化石のそばに花粉があったのではないかと想像できます。
人類の系譜であるホモサピエンスとは、直接のつながりはないとされるネアンデルタール人ですが、何万年も前に弱者をいたわり助けあって生きていたということに、何とも考えさせられるところがあります。人類の進化の方向は大丈夫なのだろうかと、大それたことを思ったりします。

しかし、ネアンデルタール人が絶滅することなく、3万年前とさほど変わらない状態で現代に存在していたとしたら、私達は、同じ国にネアンデルタール人と一緒に暮らすことができるでしょうか。
差別は良くないと、ポリティカル・コレクトネス(political correctness)として頭で判っていても、差別が悪いなどというのは後智慧に過ぎません。
単に頭の中の知識であり、現実は、風貌も服装も態度も発する声も、聞く物見る物総てが気に食わない。生理的にどうにも我慢できないという気持ちを抑えきれないという人は少なくないでしょう。
今では世界の一流文明人と目されることもあるアメリカ人は、ネアンデルタール人よりもはるかに文化的なネイティブアメリカンでさえも我慢できなかったわけですから。

今の時代殺すわけにはいかないから(現在でも異民族を平気で殺している国もありますが)、どこかに隔離しようとなるかもしれません。それでもネイティブアメリカンに対しての処遇よりはましですが、差別意識はそれ程変わらないかもしれないのでは、などと思ってしまいます。
人類の進化のレベルは、などと、またしても、大それた、というより、無責任な評論家的な思いがでてきますが、神の視点というものがもしあるならば、文明国と呼ばれる国に住んでいる私達は、3万年前の頃のネアンデルタール人と比べて、一体どの程度の進歩に見えるのか、知りたくもあります。