いじめ の背景

ニコ動などの情報では、

担任の前任校での担当教科や、担任が人権問題のベテランと言われていたことが伝えられています。
この情報や7月31日のエントリーに記した、市教委の発言を併せ考えると、いじめ問題の裏に、地域的な問題、逆差別という背景があったのではないかと連想します。(この点は、報道でも取り上げられていないため、そのようなことはないのかもしれませんが、上記の点からすると次のような背景を想像してしまいます)


差別されてきた人達の人権を擁護する制度・組織の力や発言力が強くなり、差別されてきた人達にうっかりとしたことを言うと、徹底的に叩かれるというのは、他の国でもみられることです。

差別されたり、いじめられたりすると、虐げられる側の仲間意識が強くなりますので、団結力が強まります。
そこに待遇や金銭の優遇制度などの制度が絡まると、その制度を利用しようという勢力が出てきたりします。
利用しようとする人の中には、差別してきた側の人達もいたりして、倫理観からだけでなく、儲かるからという理由でこの勢力が強大になっていく一面もあると思います。
こうして発言力が高くなるにつれ、差別されてきた人達が、神聖で批判できにくい高みに上がってしまいます。


もし、こうした状況が大津市のいじめ自殺問題の背景にあるとしたら、教師や市教委もなるべく関わりたくないと思うのは無理からぬことと思います。
しかも、親がPTA会長や役員をやったりしていれば、学校や市教委にも普段から圧力をかけられる状況と考えられます。
万一、こうした背景があったとすれば、問題は教師や市教委では解決の任は重いことでしょう。

しかし、こんな理屈で学校や市教委の不作為を是認していたら、現場の教師はたまったものではありません。
また、当事者である生徒達や、傍観者でいるしかなかった生徒達は、今後の自分の人生に、はたして前向きに向き合うことができるだろうかという懸念を感じます。

もしこのような背景があるのなら、学校や市教委は、問題の大きな根っこの一つを不可侵にしてしまって、それと大きく関係してくるいじめの問題を教師になすり付けようとすることになります。
現場の教師の力では、更に解決の任は超ド級に重くなるでしょう。

大津市の教育関係の方々の中には、問題意識を持っていて、今までも何とかしなければと考えていた人もいるでしょう。しかし、前提条件を不可侵にしたまま問題解決をするには、例えGTOが何人いても、追いつかないのではないでしょうか。


大津市の関係者のこれまでの対応を見ると、重層的な対応が取れるとは思えず、このままでは、これからも、何人もの子供達が犠牲になってしまいそうな気がします。

ことは、学校関係者だけの問題ではありません。
大津市の場合や、他の報道されているイジメによる事件も、
詳しく見てみれば、いじめではなく、犯罪ではないかと思える場合があります。

どうも、詳しく見ていくと、その事件が起きた周辺の社会に父性の存在が感じられません。
加害者や親達も、所詮学校で起こった子供の問題と軽く考えているように思えます。
善悪の基準、処罰の基準は、校則をはるかに超えてしまっています。その場合は、年齢の問題はありますが、社会罰の原理に晒される必要があると思います。
(父性の国とも言えるアメリカと比べると、日本はこういう場面で個人を非常に甘やかす社会だと思います。成人式での迷惑行為など、一部とはいえ、いろいろなところで、甘やかされた結果としての幼児性が見られます。戦後教育の影響の一面なのだと思います)

善意の子供にとって、学校は嫌な場所、窮屈な場所、安全でない場所、逃げ場のない場所、助けのない場所。

悪意の子供にとって、学校は気楽な場所、狩りにも似た刺激的な遊びができる場所、安全で逃げ場がたくさんある場所、文句も言われない甘い場所。

守らなければならないのは、どっちの子供なのか。

また、大きな根っこが早急には変えられないのならば、それでも子供達が傷つかないような対応を、別途速やかに取っていく必要があります。





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