いじめとホームスクーリング等の制度設計について(3)

このホームスクーリングのような制度に対しての批判で、一番多く寄せられるものは、
社会性が身に付かないのではないかという批判だと思います。

特に最近の日本の生活スタイルから考えますと、家の外が社会であって、家から外に出る機会が少ないのは社会との接触が少ないと考えやすく、社会性が身に付かないのではないかという心配からの批判です。

家が地域社会から遊離してしまって、特に最近多い共働き世帯を考えると、こうした心配が出てくるのはむべなるかなとも思います。

地域や時代、職業によっては、家の仕事を手伝ったり、勉強したりする方が、人との出会いも多く、余程社会性が身につく場合もあります。
しかし、子供の教育というのは勉強が中心と考えて、家では社会性を教えられないし身につかないと考えるサラリーマン世帯が多くなると、そういう人にとっては、家から外へ出た学校で、集団の中で勉強、生活する方が社会性が身につくと考えやすくなります。

しかし、良く考えてみれば、学校というのは、同世代の仲間、興味や嗜好も比較的似ている集団、接触する大人は教師という、これも類似性のある集団で、非常に偏った社会であることが分かります。

学校制度の生活は、四六時中、同年代の同じ思考レベル、同じレベルの興味をもった仲間の中で生活しているのに対し、
アメリカでのホームスクーリングは横の連携が強いため、あらゆる年代の大勢の仲間と、各種スポーツや遠足、諸活動に加わる機会が多く、
思考の幅やいろいろな世代の価値観と接触もし、交流の幅を拡げることで、子供達の世界観も広がりを見せるようになります。

しかし、この点は良く議論にもなり、批判も多いところです。
特に学校関係者は、上記のように子供の社会性が身に付かないといった批判をする人が多いようです。(それは当然ですね。特に文科省などは、今の学校制度が維持できないと食い扶持を失うかもしれませんので当然批判的にもなるでしょう、、、というのはそれほど意地悪な見方ではないと思いますが)


別な切り口からのアプローチも重要です。
単位制の学校の方がいじめが少ないという報告があります。
これは最近支持する人が増えてきていますが、実際はクラスを固定化させることが、いじめなどにつながりやすいのではないかという考えです。

クラスを固定させた場合と、単位制の要領で時間割をそれぞれで選び、毎時間履修するごとに教室が変わり、教室内のメンバーが変わる。
人見知りする子供にとっては、クラスが固定した方が友達が多くなるし楽しいのではないか、と思う人も多いでしょうが、実際は人見知りする子供にとって、単位制の方が気楽で気分的に楽という場合も多いのです。

自分が子供になったつもりで具体的な生活パターンを想像していけば、ある程度理解できると思います。

脱線しますが、昔在籍していた会社のある部署は、仕事のデスクをノンテリトリー制として、自分の場所という概念をなくして、行う業務や、その時の気分によって、机を選んで仕事をする方式をとりました。
終業後は、明日別な人がその机を使えるように、自分の仕事の道具や書類は、ロッカーに片付けます。

自分の業務の資料や書類を自分の机の抽斗にしまいこむということができないので、仕事を途中で放棄して帰るということが少なくなり、仕事にメリハリが効くようになり、切れの良いところまで頑張るようになり、、、、まあ、オーバーワークにはなるのですが、、、

小さなことのようですが、仕事に対する感じ方や、仲間に対しての配慮も、それまでとは微妙に変わってきます。
それ程弊害が感じられない小さな実験というのは、どんどんやってみるべきだなと思います。


文科省など官僚は、マジョリテイーをどうするべきかばかり考えるのではなく、傷つき絶望しているマイナリテイーをどうやって救っていくか、その施策をどう制度設計していったら良いかを真剣に考えてくれないと、10年1日の如しで、少しも良い方向に進みません。


いじめの問題は、完全になくすことはできないと思います。
小難しい議論を時間をかけて行っても、ここ何年も何も変わっていないのは、次々と起きる事件を見ても分かります。
子供にとって、家庭環境にとって、それぞれに合った、いくつかの選択肢を用意して、子供達を守る即効性のある対応をしていくことが必要で、待ったなしだと思います。

そして、その選択肢を選んだ親や子供達に、選んだことの結果責任が当然あるのだという、当たり前のことを自ら引き受ける凛とした精神があれば、官僚たちの無作為や責任回避の行動パターンが目につくことも無くなるように思うのですが。







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