思考訓練と思考停止(5)

尖閣諸島を日本が正式に領有したという閣議決定をした後の、1920年(大正9年)に、魚釣島に漂着した中国漁民を、当時の魚釣島島民が助けたことに対して、中華民国駐長崎領事が石垣の人々に贈った「感謝状」には、「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記されていました。
中国は、1920年の公文書に、尖閣諸島を日本の領土であると自ら認めていたのです。

しかし、1968年(昭和43年)に尖閣諸島付近での海底調査で石油や天然ガスなどの大量地下資源埋蔵の可能性が確認されるや、中国や台湾が領有権を主張し始めたのです。


中国の尖閣諸島領有の理由をもう一度見てみましょう。

中国の領有の根拠は、
尖閣諸島は「明代から中国の領土で台湾の付属島嶼(とうしょ)だった」というものです。
明の時代より尖閣諸島は台湾の一部であり、台湾は中国であるので、尖閣諸島も中国のものだという理由です。


昨日記述した流れを整理しますと、
中国は、1920年には尖閣諸島を、日本の領土、「日本帝国八重山郡尖閣列島」と認めていたにもかかわらず、
尖閣諸島は「明代から中国の領土で台湾の付属島嶼(とうしょ)だった」とし、それ以前の明の時代に中国の領土だったので、途中1920年には日本の領土と認めていたが、現在は中国の領土だと主張しているわけです。

中国の尖閣諸島領有の根拠は論理的に破綻しています。
根拠に合理性などは微塵も必要ないといった論理構成です。
この国の政府にとって、正義とは自らの行動原理ではなく、他人を批判するため、他人の行動を抑え込むための方便にすぎないことが良く分かります。
こうした国を相手にして、相手の機嫌を損ねないように配慮してきた日本政府が、本気で日本を守る気があるのだろうかと不信感を感じざるを得ません。

日本の政治家にも日本国籍を取得はしましたが、親や祖父母は外国人という事例が少なくないようです。私は国粋主義者ではありませんが、過去から今に至るまでの流れを考えると、裏に大きな作為があって、政治や報道の世界が動かされているのではないかなどと不安に駆られて勘繰ってしまう時があります。
日本国籍を取得した政治家達には、何か意図があるのではないか、などと要らぬ詮索をしてしまうのです。


アメリカがハワイを併合した時のように、ハワイを母国とする人達は、何の手も打てない状況で、アメリカに呑み込まれるのを見ているしかなかったのだと思います。国王も何とかアメリカからの圧力をかわして、独立を守るために奔走しましたが、アメリカの力は強すぎました。

この時の、アメリカの大きな策略を手本として、歴史から何も学ぼうとしない無防備な日本を、呑み込もうと考えている国は中国だけではないでしょう。

日本など、やがて世界地図から無くなるだろうという主旨の発言をした当時の李鵬首相は、こうした流れを見ていたのだろうと思います。


ハワイが本当の生地である、元々の現地の人達の、現在の職業は非常に偏っていると思います。
リゾート地のお店などでは現地の人達を目にする機会が多いですが、ビジネス街を闊歩している支配層は、顔つきが違います。
やはり、ハワイ王国は呑み込まれたのです。
日本はその轍を踏まないように、歴史から学ぶ必要があります。



独立国として認められていたハワイ王国では、カラカウア国王は、多種多様なアメリカの圧力を受けていました。そんな中でも、国王は何とか自立の道を探ろうとしていました。

国王はアメリカからの圧力に対抗するための協力相手として、有色人種でありながら先進国の侵略に対して毅然とした姿勢で対抗して、植民地化されることなく覇を唱えていた日本を選びます。

1881年に来日して明治天皇に謁見したカラカウア国王は、日本に協力を求めました。
日本とハワイとの連邦化を目指し、日本にアジア共同体の盟主になってもらい、ハワイ王国の白人からの侵略に一緒に対抗してもらいたいという意向だったようです。

当時の日本にとっては、アメリカとの国力の差は途方もないものに映っていました。ハワイ王国にとっても恐ろしい存在のアメリカは、日本にとっても怖ろしい巨人だったことでしょう。

丁重に断らざるを得なかった日本を去る時の、国王の心境はいかばかりだったでしょうか。謀議の限りを尽くし侵略しようとするアメリカと、一緒に戦ってくれればと期待した日本から、袖にされてしまったのです。


1887年、ハワイ王国でクーデターが発生します。アメリカに併合させるために、ハワイに後から移住してきたアメリカ人達が画策してのクーデターです。
カラカウア国王の権限ははぎ取られ、対米従属の条件が整っていきます。

国王の権限は大幅に制限され、権限を議会へ委譲する法が制定されることになりました。
これだけを見れば、見かけ上は、民主的な手続きで政策が決められていくように思えます。
民主的な制度になるため、良いことではないかと思えます。
この流れは反論しにくい状況に思えます。
議会派に正義があるように考えられやすいのです。

しかし、実態は違います。現在の民主政治とは異なり、参政権が一部の富裕層にしか与えられていませんでした。
富裕層、つまり、参政権は移住してきたアメリカ人に与えられ、ハワイ国民やアジア人の声は排除されることとなるのです。
アメリカに国が乗っ取られる下地が出来上がりました。後は、きっかけを作るだけです。


そのきっかけは、1893年に起こります。
クーデターが発生し、カラカウア国王の後継者、アロハ・オエの作者として知られる、リリウオカラニ女王はアメリカの手により幽閉されます。
アメリ海兵隊イオラニ宮殿を包囲し、その間に共和制派が政庁舎を占拠し、王政廃止と臨時政府樹立を宣言したのです。
この時アメリカ軍艦が、ホノルルに大砲を向け、王政の廃止を認めなければ砲撃するという威嚇行為をしたと言われています。ホノルルが火の海になるのを恐れた国王側は、共和国への移行に従わざるを得ませんでした。リリウオカラニは政権の座を追われます。


さて、このクーデターの際に、日本は既に死去しているカラカウア国王に友誼を示すことになります。

国王の日本への要請を丁重に断らざるを得なかった明治政府ですが、ハワイ王国は友好国です。
瀕死の状態にあるその友好国を日本は見捨てることはしませんでした。

日本は友好国であるハワイ王国に、巡洋艦「浪速」(何と艦長は東郷平八郎)と「金剛」をホノルル港へ派遣しました。王国政府が日本に助けを求めたのでしょう。在留邦人保護を名目としての巡洋艦の派遣です。

ホノルル港に着くや、何とホノルルに大砲を向けて威嚇している米国軍艦ボストンの真横に、日本海軍は船を停泊させて、ホノルルが、イオラニ宮殿が砲撃されるのを牽制しました。
圧倒的に国力の差のあるアメリカの、その軍隊に、日本は体を張って立ちはだかり、共和制側の国王側への威嚇を牽制したのです。

東郷平八郎は、幽閉されたリリウオカラニ女王の側近と接触することで、リリウオカラニ女王に危害が及ぶのを抑えようとしたようです。
東郷は共和国新政権を完全に無視しして、日本の友好国はハワイ王国だという意思を示しました。

こうして日本は、カラカウア国王の要請には応じることができませんでしたが、国王の死後、国王の妹の生命と王国側を守ったのです。


この時代の日本人は、現在の日本人と同じ人種とは思えません。
戦争も無く、今の方がはるかに幸せで良いではないかと考える人がほとんどでしょうが、
生活レベルといった面ではなく、凛とした精神性が大きく変わってしまっているように思います。

何が原因で、何が変わったのでしょうか。





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