ネパール、そういえば

昨日の、ネパール、カトマンズと言えば、ヒマラヤ登山の玄関口です。
日本ともなじみの深い地域であります。

先日、日本の立山連峰の雄山の神社の石垣を積み上げたのも、ネパールの人達の手によったとTV番組でやっていました。

これも、ずいぶん昔ですが、
『白き氷河の果てに』という映画がありました。

東京のどこで見たのか記憶にないのですが、小さな劇場だったように思います。自主製作のような映画でしたが、迫力がありました。
8,000m峰で、最も登頂が難しいと言われるK2への、日本の登山隊の記録映画です。

冷徹な美しさと自然の猛威の中での男達のドラマに感動しました。
アタックできるメンバーとアタック隊に入れないメンバーとの確執というか、天と地ほどの落差のドラマでもありました。

エゴの塊のような山男の本性。
一枚岩のようにまとまっているかのような登山隊と言う堅固に見える組織です。しかし、第一次アタック隊の人選に入れなかったことで、一人下山しようとする隊員も出てくるのです。

森田勝氏、馬場口隆一氏、寺西洋治氏、広島三朗氏等、当時の先鋭クライマーと呼ばれていた個性の強いメンバーが揃っていましたので、一つの組織にまとまる方が難しいでしょうね。皆が自分は登頂に成功すると思っていたわけですから。
画面の表情からもアクのある個性的な表情が、悲喜劇を演出していました。

当時実力No.1とも目されていた馬場口隆一氏は、第一次隊に入りましたが、悪天候のため登頂できずに、第2次アタック隊が成功します。
次の3次アタック隊にも馬場口氏は入れずに、山を降りることになります。翌年遭難死したこともあり、馬場口氏は悲劇のクライマーとも呼ばれました。
映画の公開時点では亡くなっていましたので、私は馬場口氏の表情に釘づけになりました。

第一次隊に漏れた森田勝氏も、グランドジョラス北壁で亡くなりました。
寺西氏、広島氏も確か遭難されていたと思います。


ところで、この時のK2登山隊は、500人ものポーターを引き連れていたと言われています。
K2登山隊などで行われていた登山スタイルは、極地法と言われるスタイルです。

ポーターによる荷揚げをはじめとする、サポートチームの支援を受けて、ベースキャンプを張り、あらかじめ中継キャンプを第一キャンプ、第二キャンプというように幾つか設営して荷揚げも行い、アタックテントを張ります。

固定ロープ、酸素ボンベも荷揚げして、最終登頂者が登りやすい環境を整えます。この登山スタイルを支えていたのが、テンジンによりその実力を世界に知らしめた、ネパールのシェルパです。

シェルパによるガイド、ルート開拓、テントや物資の荷揚げ、更にはロープ張りなど、日の当たらない場面で支えてもらっている人達を従えた登山隊は、大名行列だなどと揶揄されることもあります。

偉業の陰で、たくさんのシェルパ達が帰らぬ人となっています。
シェルパがいなければ、ヒマラヤの登山界の偉業の多くは成り立たなかったことでしょう。

日本では、富士山や立山の強力が有名です。どんな偉業もそれを目立たないところで支えている人達がいます。






'