視点が変わるとき

昨日記しました、K2登山隊がたくさんのポーターの助けを借りた上での偉業だったとしても、その価値が損なわれることではないでしょう。
K2に登頂できるのは限られた人にしかできませんし、成功したとしても、失敗したとしても、K2に挑戦した人の4人に1人は命を落とすなどと言われていましたので、2チームのアタック隊が登頂できたというのは、日本の登山史上でも大きな成果と言えるからです。


しかし、同じ頃、信じられないような情報が入ってくるようになりました。
ラインホルト・メスナ―が、8,000m峰をアルパインスタイルで単独登頂に成功したというものです。しかも、メスナーは酸素ボンベを使用しません。無酸素登頂です。

日本のK2登山隊の翌年1978年のことでした。場所は、かつて弟が遭難死し、メスナー自身も凍傷で足の指を切断することになったナンガ・パルバットです。


自分の登山の概念が覆されました。私は当時社会人の山の会(同好会レベルです)に入っていましたが、メスナーの偉業を耳にして、嘘だろう、というのが私達メンバーの当時の正直な感想でした。
自分の固定観念はここでも脆くも崩れました。

メスナーの行為は、人間の体でとても対応できることではないと思えました。
無酸素で8,000m峰では、意識が朦朧としないまでも、動きが緩慢になり、激しい運動をすることは非常に危険な状態というのが私達の常識でした。
それを、ポーターの助けを借りるでもなく、ベースキャンプから一気に自分の力だけで登攀する、アルパインスタイルでの登頂です。
しかも単独行です。

私達の目からすれば自殺行為にしか見えませんでした。
しかし、後年メスナーの手記を読んで、メスナーにとっても自殺行為の登攀をあえてしていたことが分りました。


メスナーはそれまでも無酸素での登頂にこだわっていました。
メスナーがあまりにも強靭で高度な技術と知識を兼ね備えているために、酸素ボンベを使わなくても難しい登攀に挑戦できるからです。

しかし、若い天才クライマーは、発言も先鋭的というより尖がっていたのでしょう、ボンベを使わなければならない山ならば自分は登らないなどと公然と発言することもあり、敵を作って批判を受けるようになります。

一流クライマーと呼ばれるクライマー達でさえ、8,000m級の山に挑戦するときには酸素ボンベを使用しなければ登頂は難しいのです。1次、2次と、中継キャンプを上げることで、体も高度順化していきます。

クライマーには個性的な人が多く、自信家で負けず嫌い、自分勝手な人も多いですから、無視すればいいようなメスナーの発言でも、ムカッときて叩き潰したくなるのでしょう。



天才の出現は、それまでの概念を変えていきます。





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