差別が生まれるヒズミ

世の中は既得権者により体制化されるのが通常でしょうが、それが良いか悪いかはケースバイケースになると思います。社会の構成員によっても、良い結果となるかは異なります。民度の違いによっても変わるでしょう。どんな教育を受けているかによっても当然変わってきます。

賢人による政治が行われて平穏な時が過ぎる場合もあるでしょうし、抑えが効かない賢人による政治のために、治安・政情不安になる場合もあるでしょう。

さて、現在の日本は(ヨーロッパでも同様ですが)、既得権者の権益を守るために若い人達の権益を損なうことになっている場合が多分にあります。
国は、年金制度の破綻を防ぐために、高齢者の自立を促進させようとします。
定年延長になれば、経済的な面でも健康保険の面でも国の負担が少なくなると期待できますので、どうしてもそちらへ舵を取りたくなります。

物事を決めているのは既得権益者ですし、既得権益者は発言力があります。
まだ何者でもない若者は発言機会もありません。既得権益者の顔色を窺う政策が、若者に割りが悪ければ、そこは曖昧にしますので、若者が政策の裏を知ることのハードルが高くなります。

例えば定年延長になれば、その分若年者の雇用の機会が奪われることにもなります。
職業に就くことは、社会人としての能力開発、訓練の場ともなります。
若い時にそうした自分を鍛える機会を持たなかった人は、年数を経ても、社会では積極的に雇用したくなる対象者ではない場合が多くなります(民間の場合ですが)
若い時のこの経験は、その後も大きな差となってきます。

しかし、それを個人の責任とするのはあまりにも酷なことです。能力を上げてこなかったのは個人の責任だと言えないこともありませんが、訓練の機会に恵まれなかった人に対して、それを個人の責任のみに帰することはできません。
個人をアゲツライ、攻撃するべきものではありません。
どうやって能力を上げたらよいかは、職業に就いてこそ分かるものです。

そうはいっても、企業が採用する場合は、厳しい環境で身を律してきて、職業を通して己を高めてきた人が採用になる場合が多いでしょう。若い時に就業機会に恵まれなかった若者は、その後もそのハンディを引きずっていくことになります。

ここに非情な差別がうまれていきます。




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