大江氏のこと
高校に入学した頃に強く心に感じたことがあります。それは、級友がそれまでの中学時代の仲間と大分様変わりしたことです。
何せ自分の通っていた中学校は、私が入学する何年か前は暴力学校として知られていた学校ですので、変わって当然とは思いますが、環境が変わると友人も変わっていくものなんだなと、その時には強い印象を受けました。
古典の好きだったクラスメートのK君は暇さえあれば、初代天皇から昭和天皇まで何代が誰々と暗唱しています。休み時間に声を出して記憶を確かめていました。降順だったり昇順だったりと替えては、時間があると暗唱しているのです。
私はそれまで、こういう種類の人に出会ったことがありませんでした。天皇の名前や、その天皇が何代目かなどということに興味を覚える人がいるとは。
しかも、K君は自発的に楽しそうに暗唱しているのです。多分こういうことがK君にとっては遊びのような趣味のようなものだったのだと思います。もっとも天皇を覚えてからは、古語の活用形などを暗唱していましたが。
私はK君が真面目でとても性格の良い少年でしたので、ずっと聞きたいことがあったのですが、とうとう口にできませんでした。
私が聞いてみたかったのは、「それを暗記して、一体何になるものか」という素朴な疑問だったのです。
機会があればぜひ聞いてみたかったのですが、聞いてはいけないような気がして、聞くに聞けない質問でした。
今では、そんなことを聞こうと思っていた自分が恥ずかしいです。
また、現代国語の高1の教科書に、高橋和巳が載っていたのにも驚きました。高校生というのは大人なんだなと思いました。
私は、高橋和巳の著作を、それまで読んだことがありませんでした。
読んだことはありませんが、一般知識として、「悲の器」、「わが心は石にあらず」、「邪宗門」、「日本の悪霊」、「わが解体」位は題名のみ知っていました。知ったかぶりのレベルで題名のみ憶えていた程度です。
高橋和巳は時代の寵児でしたので、この5冊位は知っていて当然という空気はありました。とにかく難しい文章を書く人という程度の理解しかありませんでしたが。
それがです、同級生のA君は、高橋和巳や埴谷雄高、吉本隆明の著作をあげて、議論を吹っ掛けてくるのです。
「***はどう思う?」
どう思うったって、私は読んだことありませんから。
何せ、高橋和巳を初めて読んだのは国語の教科書です。
『埴谷雄高?吉本隆明?、あんた、中学生の頃から、こんなへそ曲がりな本を読んでいたのかい。中学生なら外で遊ばなきゃいかんでしょう』、というのが私の当時の頭のレベルでした。
ずいぶん後に、吉本ばななを知ることで、父親も何となく、それ程とっつきにくいわけでもなさそうだなどと思った位です。
その当時A君がどこまで理解していたのかは分かりませんが、精神的には自分とは比べものにならないレベルだったのは間違いありません。
しかし、友人の存在というのは大きいものです。私は理解できないまでも、高橋和巳、埴谷雄高、吉本隆明の思想に触れようとして、著作を探そうとしました。しかし、高橋和巳の著作は手に入りますが、埴谷雄高や吉本隆明などは、田舎の書店では手に入りません。私は3時間ほどかけて、神田の書店街に行き、埴谷雄高や吉本隆明を探したりしました。
この頃は、難しい本を読んだといっても、字面を追いかけて読んだ気になっていただけのように思います。
昔読んだ本をパラパラとめくってみると、余白に書き込みがあったりします。当時は、それなりに問題意識を感じたり、書物に想像力をかきたてられて書き記したのでしょう。しかし、今その文を読んでもピンとこない場合がほとんどなのです。
当時の自分がピンぼけていたのか思慮が浅かったのか、または、今の自分の頭が錆ついているため、若かった頃の感受性で問題を認識できなくなっているのか、多分その両方なのかもしれません。
さて、先日ちょっと話題にしましたが、大江健三郎氏のことに触れたいと思います。
私は、大江健三郎の初期の作品を読んだ時、その繊細な分かりやすい感覚に、とても感動しました。
短編集は、とてもみずみずしい情感に溢れていて、私は分かりあえる友人に出会ったような気分になりました。
後に、ある大学のサークルの同人誌に、「空の怪物アグイー」を連想させる小説が載っていたのを今でも憶えています。その短編は特に出来が良かったわけではありませんでしたが、読み出して間もなく、アグイーを真似たと分りました。それほど、大江文学は自分にとって印象深く魅力的な存在でした。
それが、長編になると難解な文章表現で、読み進むのが苦痛に感じるようになりました。
「万延元年のフットボール」には、正直、付き合っていられないなと思いました。
しかし、その後、「同時代ゲーム」までは、何とかお付き合いしましたが、それ以降は読んでいません。
大江氏の新作が出ると、なぜか気になり書評を読んだりするのですが、、
大江氏は評論も若い時から出しています。広島ノートが、良くも悪くも評判になりましたが、私はほとんど小説しか読みませんでした。
思想的な面で大江氏はいろいろと批判が多い文学者です。
大江氏の考え方は、大部分が自分とは異なります。その行動にも疑問に思うところが多々あります。
いかに計算尽くして造り上げた作品でも、作者のイデオロギーに忠実過ぎる作品は、読んで魅力を感じない場合がありますが、しかし、その作品が作者の思想以上のものを表現している場合もあります。
その思想性をもって、作品を全否定ないし、大部分を否定する評論家もいますが、作家がイデオロギーを盛り込もうとした作品に、作者のイデオロギー以上の物、あるいは、自分のイデオロギーと相反するものが盛り込まれている場合もあります。
多かれ少なかれ、作者は自分の作品に魂を吹き込もうとする際に、作者のイデオロギーも作品に投影されます。
優れた作品に感じるのは、イデオロギーを内包しているにしても、場合によっては、それを超越するものになっている場合があると思うのです。
大きな影響力や発言力を持った大江氏ですが、社会をミスリードしてきたところがあると思います。それは、別に大江氏だけに言えることではありませんが、大江氏が影響力が大きいだけに、その責任は今後も問われていくことでしょう。
しかし、自分にとって大江氏の初期の作品群や中期の長編などのテーマ性は、少しも色褪せることなく心に残っています。
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