憧れの地の大いなる幻滅(12)

本題から若干外れますが、中川昭一氏の思考の一端を通じて、日本の直面する問題に触れたいと思います。

中川氏は領土問題にも毅然とした態度をもって対峙していました。

北方領土の件では、あくまで客観的事実を踏まえた論理で、ロシアの行為を『20世紀最大の国際法違反』とし、『領土というのは二島と言ってしまった瞬間に、二島以上のものは返ってこない』と、当時主流になりつつあった、歯舞・色丹の二島先行返還論を唱える、官僚や一部の政治家の姿勢を批判していました。

こうした中川氏の思考を、青臭いと批判するのは簡単です。今でも、そう思う人は少なくないかもしれません。
四島一括返還要求の姿勢と、二島先行返還要求とは、外交戦略上の手法の違いと考える方も多いと思います。

四島と二島自体で大きな違いはありますが、最終的には四島返還を求めるという大目標を立てた場合、この両者は外交戦略上の違いという分類での区分け、つまり戦術の違いとして認識されると思います。
最後には四島総ての返還を勝ち取ろうとするための戦術、つまり、一気呵成に畳み込むように交渉しようとする戦術と、相手がより受け入れやすいように段階的に条件を提示して交渉しようとする戦術です。
双方の手法は、例えば同一の保守政党内部での意見の違い位に認識される方も多いのではないかと思います。

しかし、戦術の違いに見える、両者の基本的考え方で外交を進めた場合、両者は相容れないものになってしまいます。保守政党の政策と、左翼政党の政策との違い程の開きが出てくると思います。

1956年の日ソ共同宣言で、平和条約を締結後に歯舞・色丹の二島の返還(ソ連は返還でなく引き渡しとしています)はソ連は了承している範囲ですが、時代によってもこの考えも変わっています。

当時、四島にこだわったら一島も取り戻せないかもしれないという現実論があっての二島先行返還論だったと思います。
しかし、あそこで妥協していたら、どうなっていたでしょうか。

現在、若い人達の中に芽生えつつある日本の国家を思い、世界の不幸にも目を向けようと、日本の国では教えようとしない日本の歴史・真実や、世界の歴史がどうなっていたのかということに関心を寄せ、自分達でやれることをやっていこうとする貴重な動きに水をさすことになっていたように思います。

北方領土は、本来日本の領土だった地を、ロシアが自らの利益のために日本との平和条約を一方的に破棄し、平和条約を結んでいた相手国の日本に謀略の限りを尽くして奪い取ったものです。
ソ連の行った行動は、近代史に残る稀に見る卑劣な行為です。


日本の領土問題に対しての政治家や官僚達の考え方に、私は違和感を感じるときがあります。
それは国土の領有までを、経済合理主義で割り切って考えようとする点です。

民間の経済活動と同じような考えで、領土への対応を考えるというのは、時に取り返しのつかないことになる場合があると思います。

民間の経済活動であれば、100を取れないのであれば、80、60を取る方法を考えて、企業は利益が極大になるような行動を取るでしょう。ゲームの理論を踏まえてです。
ゲームの理論で領地を考える場合もあります。それは領地を略奪する側です。
略奪したソ連北方領土を使って、さらに自分達が得をすると考えられることがあれば、北方領土の領有権をも、ゲームの理論のツールとして、交渉に当たることでしょう。

過去に強国が奪い取った植民地の処分も、ゲームの理論に則った形、経済合理性基準で対処・処理をしていると思える場合があります。植民地にした国の、領地とそこに住む人達を、再配分したりしたことで、今尚領土問題、宗教問題で
悩み苦しんでいる国もあります。奪われた地は、追われた人達からすれば故郷です。そこには魂が宿っています。宗教とも切り離せません。故郷を故国を奪われた人達にとって、経済合理性基準では割り切れないのです。


北方領土で、あの当時の二島先行返還論は、先行して二島を返してもらった後に、機を窺って残りの二島、
択捉・国後の返還を求めるような説明をしていたと思います。国民の多くは、そのように理解しているでしょう。
しかし、これは、国民をその時に納得させるための理由でしかなかったと思います。

実際は、北方領土四島を総て返してくれそうもないから、面積の狭い二島を返してもらえば、残りの二島はよしにしよう。日本がそういう姿勢を見せれば、ソ連とも交渉できるのではないか。仮に交渉がうまくいきそうになれば、その妥協案は密約として、日本国民には内緒にすればよい。
二島を返還させ、残りの二島については、日本が資本協力をして日ソで合同開発をすることにすれば、北方領土の開発にまで財政が廻らないソ連も、喜んで応じてくれるだろう。本音は、こんなところにはないでしょうか。

大体、交渉相手のソ連が二島をいったん返還して、何十年か後に、残りの二島も返すなどという考えをするとは思いません。日本が戦争に負けたから奪われたので、奪いたかったら、次の戦争で奪い返せば良いなどと言っている国です。

二島返還になれば、その二島の海洋資源や今後の利用方法等に話題が集中して、日本国内には明るい気分が充満し、盛り上がることでしょう。また、残りの二島の開発に日本が加わることで、ソ連に対しての悪感情が和らぐことでしょう。
そして、残りの二島(ずっと面積は大きい土地ですが)の返還運動はトーンダウンすると思います。
そして、50年後、60年後になれば、後の二島を還せなどという論調は、アナクロニズムと一笑に付されるのではないかと思います。
日ソが協力して、残りの二島の開発を行い、その利を日ソ双方で享受していこうではないかなどと、侵略国ソ連(今ではロシアですね)から言われれば、故郷を追われた人達の気持ちを共有する魂も、私達の心の中には薄れていることでしょう。

ゲームの理論の内、最悪の選択肢のうちで、最善の対応を選ぶというものです。企業間競争であれば、この選択肢は利益の極大化をもたらす選択肢となる場合もあります。

しかし、国家の領土問題の選択肢としたらどうでしょうか。四島還らないよりは二島戻ったほうがまし。
単なる領土面積の損得勘定では、そういえるかもしれませんが、そうすることで喪うものは、大きいように思います。


北方領土には1万7千人程の日本人が住んでいたと言います。

奪われた領土では、どういう人達がどんな生活を営んでいたのか。
どんな風俗文化があり、どんな風習があったのか。
どんな街造りがされていて、どんな家に住んで、住人達はどんなことを考えて暮らしていたのか。

学校ではどんな教育が行われていたのか。
子供達は学校や家庭で、どんな遊びをしていたのか。
人々はどんな歌を歌っていたのか。
どんな楽器を弾いていたのか。

お正月には、どのように新年を迎えて、どんな祝い方をしたのか。
お正月にはどんな料理を作ったのか。
お年玉なんてあったのかな。


ソ連がどのように攻めて来て、どんな仕打ちをされたのか。
人々は故郷にどのような想いを抱いているのか・・・


私が知りたいと思うことの、一つひとつに、色々な感慨を伴う多くの答えが返ってくることでしょう。
領土を奪われたことで、これらの一つひとつのことが、思い出にしか残らなくなったのです。


奪った方は、その領地に対しては、経済合理性を重視して外交を考えてくるでしょう。
奪われた方はその領地は国土であり故郷でもあります。その土地に魂が入っているのです。

二島返還されて、日本人としてのアィデンティティーが、精神が溶解してしまうよりも、不法に奪い去られたことを心に刻み込んで、国際社会にあっては力が大きな正義であること、国家間の非情さ等をいつまでも記憶の片隅にいれながら、四島返還を要求し続けること。
領地を奪われた側としては、仮にやせ我慢であっても、やせ我慢を通せるのであれば、四島返還を要求し続けるべきではないかと私は思います。

中川昭一氏が四島返還にこだわっていたのは、皮膚感覚として、こうした思いを感じ取っていたのではないかと思います。