憧れの地の大いなる幻滅(13)

大分戻ります。北方領土の話題まで。

北方領土の返還の理論として、二島先行返還論、四島一括返還論、その他に三島返還論、面積で2分の1になるように歯舞、色丹、国後の3島に加え、択捉の25%を日本に、75%をロシア側に譲渡する、等の考え方などがありますが、日本側がどうしたら最大限の成果を得ることができるかという観点での考え方で、相手がどういう態度を取るかはまた別な話です。

例えば、北方領土の歯舞・色丹の二島を先行して取り戻したとして、国後、択捉をロシアが、その後返還するだろうかという大きな疑問があります。二島先行返還論に賛成できない理由です。
ロシアは、日本の領土権はサンフランシスコ条約によって破棄されているとみなしており、歯舞・色丹の二島は返還でなく平和条約の締結の見返りとしての譲渡であるというのが基本的考え方です。

その上で、ロシアの国力が落ち込めば、日本の援助をあてにして、二島を返還して国後、択捉の二島を日ロで共同開発を行うなどの、ロシアからしたら譲歩案を腹積もりとする場合も考えられます。
また、中国の脅威がロシアにとって大きな存在になれば、日本への傾斜は更に大きくなるでしょう。しかし、四島返還となるのは、ロシアの国力が相当衰退しない限り、考えにくいのではないかと思います。

二島先行返還では、なし崩し的に二島のみの返還になってしまうことを危惧しますが、
四島返還を要求し続けたら、二島も奪回できないではないか、その間、北海道の漁業は、北方四島の良好な魚場で操業ができない状態が続く。損失は巨額になる。
こういう主張に対して、尚も四島返還を要求し続けることを、精神論に過ぎないと批判する人も多いでしょう。

歴史を学ぼうとしない国、日本の価値観をないがしろにする教育を行っている国、日本人のアィデンティティーを求める気持ちを重要なことと考えない国では、こうしたことを、なおさら精神論として嫌いそうな気がします。


日本人には、ソ連北方領土を奪われたという経験から、他国の領土をソ連のように卑劣な形で手にした方が得だなどと思う人は少ないでしょう。
国土を不合理な形で奪われたことから、どんなに他国を侵略することが卑劣なことで、国土を奪われること、故郷を奪われることが、どんなにも悲しいことかに思い至り、他国に対しても、ソ連のような理由で他国を奪おうとすることはないと思います。

私達にはこうした不毛な闘争を好まない傾向が強いためもあり、自分達が侵略しなければ、他国も侵略してこないだろうと考える人は、まだまだ多いようです。

先日BSフジのプライムニュースで、社民党共産党の議員が、今度の選挙に際して政策の説明をしていましたが、尖閣諸島を中国が奪おうとしたらどうするかという質問に、中国が奪おうとする前に、奪おうという行動をしないように話し合うという主旨のことを主張していました。徒に刺激を与えないで話し合いで解決したいと言う考えを敷衍したものです。

しかし、日本人のようなメンタリティーを持った国は数少ないのです。他国が侵略してこないようにするには、侵略してくれば痛い目に遭うということを知らさなければ、侵略をやめない国も多いのです。

ここでは、司会者は、話し合いでも武力行使を止められない場合のことを聞いているのです。彼らは、そういうケースの場合を想像することもできないようです。そこで完全に思考停止です。

戦後の平和主義者の論点は、論点などと言う程のものは存在せず、単なる思考停止に過ぎない場合が多いと思います。心地良く、多少小難しく味付けをしたものが耳に心地良いので、日本の文化やアイデンティティーをなおざりにする戦後の教育を受けてきた者の耳に響いたのです。当時の進歩的文化人などと呼ばれていた人達の多くは、このレベルで味付けを変えたり、盛り方を変えたりして、目先を変えただけの方がたくさんいたように思います。

思考停止は楽な状態ですので、その上で酔える状況にあるという条件が重なると、熱狂的な支持を集めやすいのです。
しかし、安心して思考停止できたのは、彼らが嫌っているアメリカと、日本が平和条約を結んでいるからにほかなりません。先人達が世界の乱暴者達にこの国が蹂躙されないようにと、パワーバランスを読みながらアメリカとの仲をうまく保ってきてくれたお蔭だと思います。

こうした、自分が存在できる条件に目を向けずに、国を崩壊させる方向に舵を切るという思考は、恵まれた境遇の道楽息子に見えてしまいます。
今の時代の空気を吸っていながら、上記のような考えしか出来ない国会議員がいるということには呆れてしまいます。
その政党には外交交渉ができないということになると思います。

場合分けの考え方ができなければ、事前のシミュレーションもやれませんし、いつもぶっつけ本番になってしまいます。そういう議員・政党には、危なくて交渉は任せられないでしょう。


認識と思考とは密接な関係があり、見聞を拡げ、認識力を高めることで思考力も高めることができます。また、思考力を高めること、特に思考の殻を打ち破ることで、認識のフレームががらっと変わることがあります。

民族・国家のアィデンティティーが確固としている国民は、思考が感覚になっている場合が多く、自分達の感覚と認識、思考とが、大きなブレを見せることは少ないと思います。

しかし、私達は戦後の教育やマスメデイアによる報道等により、私達個々人に日本人のアィデンティティーが根付かないような教育を受けてきています。日本の近・現代史について、一面的な見方しかできない価値基準を、教育の場やメデイアは垂れ流し的に送り続けています。しかも、メデイアは本当のことを知らせない場合がとても多いのです。その上、あろうことか、事実と違うことまでを、何の痛痒も感じず(と私には見えます)、平然と報道しています。とても、私達がその裏に埋もれてしまった真実は何かなどと、いちいち探るなどということは大変難しいことです。

企業社会で多忙な人達の多くは、普段目にし耳にする報道機関からの情報を、先ず疑ってかかるなどという習慣は持っていないと思います。
それに乗じて、政治家や官僚は自分達の思惑に向けて事実を誤魔化すことがありますが、本来マスコミはこうしたことを白日の下に晒し、真相の解明を行うのが役割の筈。国民が正当な判断ができるように、真実にいかに近づき、それを国民に知らせるかというのが、ジャーナリストの大きな役割の筈です。