ロングテール現象への向き合い方

新聞の配信形態の変化により、関連の業界では先行きの市場の変化に対応しようと苦慮しているようです。

電子化の波は、重量物の紙を製造する業界、運送する業界、印刷関連の業界、出来上がった新聞を幹線輸送する業界、戸別配達する業界等々、ジワジワと影響が出てきているようです。
形は変わりますが、これは新聞業界だけではなく他の業界でも同様に思えます。

全国区の大手新聞社や地方の新聞社の多くは、新聞と言う媒体に、総花的なコンテンツを志向して盛り込んできました。
総花的な新聞は、かつては、例えば、企業・経済面やスポーツ面は父親が、社会面や料理の欄、地域・文化の欄は母親が、TV番組欄等は子供達だったり、海外、レジャー等々の記事を含め、家族が興味に応じて読むことができました。
また、とりあえず、一通り全体に目を通すと、社会全体の「今」について分ったような気になります。

しかし、新聞の場合、1件のニュースの情報はそれほど詳しくありません。詳しくないだけに、一通り読んだだけでは、心の中に後々まで残りにくくなります。また、初期情報は、事実を必ずしも把握していない場合もあり、その後の詳細情報を追って検証していかないと、間違った情報を脳に刻み込んでしまいかねません。その後の詳細情報は、紙面の制限と、タイムリーな報道を優先する必要から、新聞という媒体では十分な役割を果たすことには無理があります。

ネットのニュースでは、そのニュースの関連として、過去の経過や、キーワード等から関連の情報を簡単に得ることができます。
評論家や学者の意見、一般読者の意見等を参考にでき、情報を掘り下げることが容易です。
深く知ると、自分の生き方、基本的な考えや感性と照らし合わせて、そのニュースと向き合うことになり、より心に残りやすくなります。
新聞の記事では情報を掘り下げて知らせるまでいかない場合が多く、その情報量はネットの情報量と比べると格段の差があります。

総花的情報紙を一通り読んだだけで、世の中が分かった気になるのは、今の時代では危険なことに思います。紙面にまんべんなく目を通すことで安心感を感じやすいと思いますが、そこで安心していると、いつかユデ蛙状態になっている恐れがあります。


さて、新聞を購読する側からしますと、
生活のパターンが家族と一緒の時間が多い場合、特別関心があるわけではなくても、家族と行動を共にするための情報はチェックすることが多くなりますので、総花的コンテンツの媒体というのは、有用な場合も少なくありません。

しかし、最近では、子供と同居する世帯数の減少傾向が顕著です。子供と同居する世帯、親と同居する世帯が減っています。一つの家庭で、世代をまたいで過ごす時間が減少しているということです。
そうなると、例えば、夫婦の関心が、それまでの家族の記事の関心事から、男、女がそれぞれ関心を抱く記事へと、分散しやすくなり、これまでオーバーラップしていた関心の、面積が少なくなっている傾向にあると思います。


総花的大手の新聞と異なる差別化商品としては、発行部数の面では日本経済新聞が筆頭に上がるでしょう(多種なジャンルを網羅しようという総花的志向はありますが)。
その他日刊工業新聞、各種スポーツ新聞、株式関係の新聞、数多い業界紙等、種類はたくさんありますが、将来的に部数の減少への危機感が大きいのは、セグメントされない総花的な全国紙や地方新聞ではないでしょうか。


私は新聞の購読を昨年末で止めました。
全く読まない日も多くなってしまい、読まない新聞がたまり、場所を取るのを見ていると、情報を得ること自体が何だか虚しく思えてきました。それまで、休日にまとめて目を通すこともありましたが、他にもやりたいことがいろいろとあり、自分の今の生活では新聞の購読は必要ないと思い止めました。

そうは言っても、私は長く産経新聞を購読していましたが、脅しや軋轢をものともしない論調は、今の時代ではなかなか触れるきっかけがありません。完全に読まなくなるのも寂しいので、スマホ産経デジタルを読んでいます。東京版の産経新聞ですので、静岡の地域情報はありませんが、それ以外は今までと変わりがありません。それどころか、新たに思うことも出てきました。

新聞や雑誌はラフな状態で寝転んで見たりもできますので、気楽な媒体だと思っていました。
それに比して、PCでは椅子に座って机に向かうので、あまりくだけた楽しみ方ができないと思っていました。それがスマホでは雑誌以上に気楽な格好で、どこでも楽しめます。新聞に目を通しにくい場所でも、スマホならば細切れの時間を利用して見ることもできます。
あまり、新聞紙面を読む時間がなくなってきていましたが、新聞の購読を止めてスマホで観るようになってから、紙面に目を通す時間が増えることになったのです。