体罰と教育

教育の場における暴力は、日本人のメンタリテイーと深く関わってくるように思います。

教育を受ける側、教育する側の、それぞれの立場、事情、資質の組み合わせによって、マトリックスで考え、整理しないと、解決策が明瞭にならないように思えます。

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伊吹文明衆院議長は9日、自民党岐阜県連主催の政治塾で、スポーツ指導や教育現場の体罰に関し「体罰を全く否定して教育なんかはできない。この頃は少しそんなことをやると、父親、母親が学校に怒鳴り込んでくるというが、父母がどの程度の愛情を子に持っているのか」と述べた。出席者の質問に答えた。

伊吹氏は「何のために体罰を加えるのかという原点がしっかりしていない。立派な人になってほしいという愛情をもって体罰を加えているのか、判然としない人が多い」と指摘した。

(2013.2.9 18:46 産経ニュース)
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直截的言い方をする政治家の言は、前後の脈絡を踏まえないと誤解を招きやすい面がありますが、本人のことを真剣に思って教育する場合、体罰は必ずしも否定すべきことではないということでしょうか。これはこれで正論の面があると思いますが、

他方、産経のコラムで、示唆に富んだ記事がありました。
ちょっと長いですが引用させてもらいます。

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論説委員・福島敏雄 体育とスポーツは違う
2013.2.9 03:17 [土・日曜日に書く]
 ◆改造される「身体」

 明治初期、徴兵制が導入されたさい、兵士たちは奇妙な歩き方をした。なんば歩きである。右手と右足、左手と左足を同時に出し、すり足状態で歩く。指導にあたったお雇い外国人が目を剥(む)いて驚いた、といわれる。

 当時、富国強兵に向けて、日本人の身体の改造が急務であった。同時期の学制発布でも、体育教育には大きな重点が置かれた。

 逆に言えば、近代は身体の改造がなくしては始まらなかった。フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは「監視と処罰」というサブタイトルを持つ『監獄の誕生』のなかで、こう指摘した。

 「身体の運用への綿密な取り締まりを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順=効用の関係を強制する方法」として、近代は「規律・訓練(ディシプリン)」を求めた。監獄だけでなく、兵舎や病院、工場、学校などが対象であった。

 とりわけ監獄では、多くの囚人を監視するために、一望監視装置(パノプティコン)が造られた。円環状の建物の内側には、檻(おり)で閉ざされた囚人部屋があり、中央には監視塔が設けられる。

 この装置が絶妙なのは、囚人部屋からは監視塔の内部を見ることができないことだ。監視塔内に監視者がいなくても、囚人たちはつねに監視されていると思いこみ、「従順」にならざるをえない。

 だがこれは、あくまでも西欧の近代が誕生した18世紀ころに求められた「恒常的な束縛」であり、そのための監視方法であった。

 ほぼ1世紀遅れで近代化の道をあゆみはじめた日本では、いまだに身体にたいする「規律・訓練」を重視しつづけている。学校の運動部が、その典型である。指導者は、部員たちの身体の「綿密な取り締まり」を当然とみなし、それが試合結果につながると思いこんだ。監視術もたくみである。

 ◆決定的に欠けているモノ

 筆者の体験では、かれらは、たいてい選手たちの動きやプレーを後ろから見ている。選手たちはつねに「見られている」が、「見ている」ものを「見る」ことはできない。指導者は、いわば擬人化された一望監視装置であった。

 指導者がもっとも忌みきらうのは、「規律・訓練」からの逸脱者である。監獄に懲罰房があるように、逸脱者に対しては、懲罰が科せられる。チーム競技の場合は、「右代表」として主将が、個人競技では個々の選手が、それぞれ対象となる。

 自殺した大阪の高校の主将や、五輪柔道女子代表の選手たちへの体罰事件で特徴的なのは、多くの目撃証言があるように、ほかの選手に「見える」かたちで体罰がくわえられていることだ。「見せしめ」のためである。

 指導者もチームや選手の強化は、体罰の強化によってなされるという「逸脱」をおかした。練習の場は、近代初頭における「監獄」と同レベルであった。

 ここには、決定的に欠けているモノがある。スポーツという要素である。

 ◆根が深い暴力のDNA

 スポーツの語源はラテン語の「ポルターレ」に由来する。「ものを運ぶ」という意味を持つ。これに否定形の「デ」がつくと、「デ・ポルターレ」となり、「ものを運ばない」となる。

 これが拡大し、「仕事から離れ、気晴らしをしたり、遊んだり、楽しんだりする」という意味となった。その延長線上に、近代スポーツが誕生した。「監獄の誕生」と、ほぼ同時期にあたる。

 つまり体育とスポーツは、起源からして根本的にことなる。一方は「規律・訓練」であり、一方は「気晴らし」である。

 欧米のアスリートたちのほとんどが、体罰を受けたことはないと答えている。かれらは主体的に自らに規律を課し、訓練ではなく、自主的な鍛錬によって、身体の強化をはかっている。

 日本人は、もともと身体にたいする「恒常的な束縛」に従順であった。司馬遼太郎は『翔ぶが如く』の中で、西南戦争のさい、熊本鎮台に籠城した農民や商人出身の兵士たちの活躍にふれ、「鎮台兵は無学愚鈍だったという先入主は、明治初年の社会を見る上で、捨ててかからねばならぬようである」と書いた。

 徴兵制や学制発布から、わずか数年後には、体罰をともなったであろう「規律・訓練」によって、リッパな兵士が誕生していたのである。この伝統が帝国陸、海軍に引きつがれ、すさまじい暴力を生んだ。暴力のDNAは戦後も、やがて指導者になる選手たちによって、延々と引きつがれてきた。

 体罰の根は深い。日本では、まだ近代スポーツの精神は「誕生」していない。(ふくしま としお)

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このコラム、とても深いところを突いているように思います。

日本で近代スポーツの精神が「誕生」するためには、日本人のメンタリテイーの自立性が開花することが必要だと思います。
自立性の開花では、通り一遍かもしれませんが、外的環境が劇的に変わってきているにもかかわらず、頑なに護憲を叫ぶ余り、その内容を虚心坦懐に議論することも厭うメンタリテイーとも相通ずるところがあるように思います。

「主体的に自らに規律を課し、訓練ではなく、自主的な鍛錬によって、身体の強化をはかっている」人達は、スポーツ選手の中には多いと思います。特に海外で活躍している人達は、強靭な精神性で主体的な鍛錬で身体強化を行っています。
ただ、それができる人達ばかりではなく、人間弱い部分があります。そこを補うのに指導者の力を必要とする際に、問題が出てきたりします。
もともと志願して強くなろうとしている人達には、理論、道理、情を尽くして指導できないなら、暴力ではなおさら指導は難しいのではないでしょうか。

そうした、頂点に近い人達ではなく、志願はして努力していると言っても、
圧倒的に多いのは、意志力も特に強くなく、ありふれた能力なのにスポーツが好きで部活を一生懸命にやっている生徒達でしょう。
そうした生徒にとって、その時には辛くても時にはシゴキが良薬となって作用する場合もあるでしょう。
その場合は、伊吹文明氏が言うように、相手への愛情が前提になりますが、相手の身体的、心的状況を的確に把握できている指導者がどれだけいるでしょうか。
私も学校で教師からの暴力は経験してきましたが、愛情をもって向き合えば良いというものでもないと思います。
相手に強い影響を及ぼす立場の指導者が、相手への理解が浅いならば、いかに愛情があっても暴力行為が良い方向に行くことは少ないと思います。