なんば歩き

昨日の、後の方のコラムに、「なんば歩き」というのがありました。

私はこの言葉を、これまで聞いたことがありませんでした。(以前聞いたことがあっても、忘れてしまっていることがとても多いのですが)

聞いたことのない、この「なんば歩き」という歩き方。
私は小さい頃、そういう歩き方をしていました。
そのため、この記事に興味を持ったのかもしれません。

小学校に入って、すぐのことでした。
校庭で整列や行進の練習をするときに、私は先生から歩き方がおかしいと注意されました。
私は自分の歩き方のどこがおかしいのか分かりませんでした。歩き方など意識したことがありませんでした。

正しい歩き方というのを先生が見せてくれるのですが、私には、それがどうして正しいのか分かりませんでした。そのため、また、暫らくすると、前と同じ歩き方になります。
先生に注意されても、私は当惑するだけでした。

先生が何度も何度も注意をするために、級友達も、私の歩き方をおかしいと言うようになりました。しかし、それは先生の言うことの口移しに過ぎなかったように思います。単に他人を揶揄するツールとしているだけに思えました。

歩き方など自分では、どうでも良いことのように思っていたと思います。
私は、その時は従順な6歳児でしたので、先生の言うように変えようと思い、暫らく時間がかかりましたが、やがて皆と同じ歩き方になりました。

今から考えると、取るに足りないことに、先生はずいぶん労力をかけたものだと思います。
自分では歩くのに不自由していませんでしたし、その歩き方が原因で転んだりつまずいたりすることもありませんでした。運動能力も並み以上でしたし、自分にとっては何の不自由もなかったのです。

歩き方がおかしい、という言い方もおかしなものに思います。
私のような歩き方をすると、病気になりやすいとか、雑踏で人とぶつかりやすいとか、つまずきやすいとか、具体的な不都合をあげてくれれば、納得して直したと思いますが、何の証明も示さずに、おかしいから変えろと言う言い方は乱暴ではないかと、今では思います。

利き腕を変えると身体に変調をきたすと言いますが、歩き方を直したら変わることも出てきそうです。そうしたことに思い至らないで、みんなと違うから変えろというのは、ずいぶんと個人の領域に立ち入った話ではないかと思います。

そういう歩き方よりも、こうした方がバランスが良く歩きやすくないか?今までの方法よりも歩きやすいようなら、早めに歩き方を変えたらどうだ、と助言してくれるのでしたら分かるのですが。

歩き方ほど目につくことではありませんが、例えば呼吸の仕方にしても、その方法は大分個人差があるように思います。
普段は意識してはいないでしょうが、呼吸方法のベースになっている仕方には、大きく吸って深く吐く人。小刻みに一拍ずつ行う人。二拍で吸って一拍で吐く人。二拍で吸って二拍で吐く人。いろいろな形があると思います。

珍しい呼吸方法をする人をつかまえて、
こういう呼吸の仕方は気持ちが静まり楽であるから参考にしたらどうだ、という助言であればありがたいことですが、こういう呼吸方法が一般的だから、皆と同じようにしなさい、というとしたら、より暴力的なような気がします。
そうなると、大きなお世話と今の私なら言い返すでしょうが。

・・・と、大したことでもないことを、ちょっと天邪鬼的に述べましたが、

昨日のコラムに、
指導者がもっとも忌みきらうのは、「規律・訓練」からの逸脱者である・・・とありますが、
私の歩き方も、「規律・訓練」からの逸脱だったわけです。

歩き方の方法についていえば、校庭で整列したり、クラス毎に整列して退場したりするときに、足が揃っていないと管理者は気になるのでしょう。私一人が全体の秩序を乱していたのですから。

しかし、ここで、その歩き方を管理・矯「正」する必要がどこにあるのかということを、管理者や指導者は考える必要があります。
変えることに、はたして道理があるものなのかと。

「画一的ではあるが、皆と同じような行動を取らないと、この日本という国では生きにくい」とか、
「歩き方の違いが、いじめの原因となったりする場合がある。そのため、他に特別な理由はないが、皆と同じような歩き方にしたらどうだ」などと説得する管理者もいるでしょうか。
また、「全体で整列したり行進したりする時だけは、皆と同じような歩き方にしなさい」などという説得も、事なかれ主義ですが合理的なように思えます。

こうして、道理を尽くそうとすることで、管理者や指導者達本人の思考も循環していきます。
思考停止に陥ることなく、思考を循環させ、深めることで、

歩き方程度の違いで、いじめるようになるなんて、何とバカげたことかと思うようになるかもしれません。
歩き方の違いで、精神に作用する効果が違うものなのだろうかと、研究してみようと思うかもしれません。
歩き方をみんなと同じように変えた方が良いと思ったが、それほど安定が悪い歩き方ではないようだ。一体、どういう歩き方が、どういう場合に適しているのだろうと、更に真理を究めたいと思う管理者・指導者が出てくるかもしれません。
全体が揃っている方が美しいと思っていたが、ばらばらでも良いのではないだろうか。美の基準は時代とともに変わるものだし、絶対的なものではないから、強制するのもおかしいことかもしれない。等々。

こうしてみてくると、指導者の資質に透けてくるものが見えてきます。


日本人は集団行動に、整然性や規律を求める傾向にあります。最近の若い人はまた違うかもしれませんが、美意識も整然性、画一性の背後の見えない努力を重んじるようなところが、従前はあったと思います。
今でも教育の現場ではあるのでしょう。
整然性・画一性を志向する性向は思考停止を伴う強制となりやすく、場合によっては、事実の隠蔽工作の方向に作用しやすい面が出てくると思います。

北朝鮮マスゲームなどを見ていると、集団行動に対する美意識は、以前の日本にも同じようなところがあったのだろうなと思います。
北朝鮮ではマスゲームで逸脱した行為があると、きっと酷い目に遭わされるのでしょうね。

当時の先生は、私一人だけがみんなと違うので、規律を乱していると感じたでしょうが、その当時の先生方の感性に文句を言うつもりは全くありません。

自分が、他人と違っていることを意識した経験は、差別の問題などを考える際に、何かと参考になるものです。
そういう意味では、貴重な体験をさせてもらったと思います。
何せ、家では私の歩き方などに誰も関心を示しませんでした。その程度のことだったのです。


さて、この「なんば歩き」、「なんば走り」というもの、ネットで調べてみると、古来の日本人の歩き方らしく、

とても深い背景があるという思わぬ事実に出会い、自分の蒙昧が啓かれます。ネットの時代に感謝です。


ナンバ走り

【4】ナンバ(なんば)歩きの勧め

小学生時代に、歩き方を矯「正」されていなければ、また違った人生を体験できたかも、などと思います。