下村博文大臣のこと

昨年安倍内閣が発足した際に、下村大臣の異色の経歴が話題になりました。

今年の1月1日のあしなが育英会の、「NEW あしなが ファミリー」の号外に載った、下村氏の寄稿文が、とても心に響きました。
下記に転載させていただきます。
下村氏は淡々と筆を進められていますが、その内容はどんなに過酷で大変なものだったか・・・

小学5年生の時に、学校の先生が「博ちゃんは、将来文部大臣になるかもしれないね」と仰ったそうです。
この言葉は、博文少年の胸の奥に強く残り、心の支えになったのかもしれません。

そして、実務を着実に積み重ねて、下村文部科学大臣の誕生です。

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≪小3で父交通事故死≫

 私が小学3年生の時、父が交通事故で亡くなった。
父は当時38歳、母は32歳、私が9歳で弟2人はそれぞれ5歳と1歳だった。

 母は生活保護を受けることを断り、昼はパートに工員として出かけ、朝と晩は田畑を耕していた。極貧の生活の中で、兄弟3人で生卵一つを分けあって食べるような生活だった。 私も小学生の頃から農作業を手伝い、中学時代は親戚の家にアルバイトに出かけ耕運機を動かした。

奨学金で高校進学≫

 私が政治家を志したのは、小学5年生の頃からだ。
私たち母子家庭に手をさしのべてくれた人達に、大人になったら恩返しができるような人間になろう。それが一番できる仕事が政治家だと思ったからだ。

 ちょうど高校に入学する年に交通遺児育英会が設立されることになった。日本育英会(現在の日本学生支援機構)の給付型特別奨学金(現在は無くなってしまった)だけでは経済的に進学するのは厳しかったが、両方の奨学金を受けられれば、何とか高校に進学することができるギリギリの家計だった。

 高校を卒業する頃は政治家への夢はますます膨らみ、たくさんの政治家を輩出した早稲田大学に進学することを目指す。母との約束で大学の授業料だけ出してもらい、あとは自活することになる。
 板橋区の赤塚にあった古いアパートに下宿したことが縁で、板橋区がその後の私の選挙区ともなった。偶然とは言え、不思議な縁の始まりだ。
 大学時代は家庭教師や市場のセリの手伝い、喫茶店のウエイター等、ありとあらゆる種類のアルバイトを20種類はした。

≪募金が公憤の原点≫

 育英会の街頭募金もやった。私にとって街頭募金をすることは、精神的につらく悲しいことでもあった。
交通遺児に進学の夢を!どうぞ募金をよろしくお願いします!」と訴えることは、私自身がその当事者であるために、当時、まるで乞食のようだと自分自身のことを思ったが、多くのボランティアの学生達や他の遺児達も声をからしていて、自分だけ逃げることはできなかった。

 それが社会的憤りの原点ともなり、それまで政治家になりたいというのは、ただ私の内的な思いでしかなかったが、行動として雄弁会に2年生より入会することになった。

 早稲田大学雄弁会は、それまで何十人という国会議員を輩出している名門サークルだ。
 それまで恥ずかしくて「政治家になりたい」とも人前で言えない、ごく平凡な学生だったが、雄弁会に入り、積極的に政治活動をするようになる。


≪会長に諭され初当選≫

 大学4年から板橋の東武練馬で始めた学習塾が軌道に乗り、就職しないで塾を経営することになる。学習塾は生徒も2千人近くなり大成功し、31歳の時都議会議員に初出馬するも、わずかの差で落選。
 選挙の時、過労で妻も入院し、塾の教師も半分以上がやめてしまいどん底に落ちる。育英会からも玉井会長を先頭に職員や学生達が連日応援に入ってくれたが、何の恩も返せなかった。

 4年後の都議選の時は、「もっと準備をし万全の体制ができた時、挑戦したい」と玉井会長に断念の意志を伝えに奥さんが危篤状況にある病院まで行ったが、「今やらずして、いつやれる!」と諭され、立候補を決断する。

 この時も遺児の後輩の応援を受け、初当選を果たすことができた。35歳の時である。
 その後、都議2期、衆議院6期当選し、やっと念願の文部科学大臣に就任することとなった。
  (高奨一期生 下村博文