下村博文大臣のこと (2)

昨日に続き、下村大臣の話題です。


昨日の、あしながファミリーの下村氏の寄稿文に、あしなが育英会の玉井会長のことが出てきます。
子供さんを抱えるシングルマザーの中には、父親と同じ年代の男性を子供と近づけたくないという方もいらっしゃいますが、玉井会長は、ある面で父親代わりの、良きアドバイザーでもあり、頼りになる親爺だったのだろうことが読み取れます。

下記は、玉井会長の下村氏に対するコラム記事です。
  

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(1月1日付け、「NEW あしなが ファミリー」号外より転載)

                   
        『共生』  編集長 玉井義臣


≪☆永遠の「青雲の志」こそ博文らしさ☆≫ 

下村博文は、遺児が大臣になったあしなが運動史上第一号の奨学生だ。下村は9歳のとき、38歳の父上を交通事故で亡くした(藤村前官房長官は「遺児を励ます会」の大臣第一号である)。

 世の中の人が急に冷たく感じたといったこともあった、と聞いたことがある。母上32歳、2人の弟がいた。
さぞかし母上は大変であったと思うが、生活保護を受けずに働くという気概が博文にもあった。

博文は母上を助けて、学校から帰ってすぐ耕運機に乗った後、勉強するという男だった。一転、母上の生家へ転宅していたのが、猛勉強の結果、泣く子も黙るタカタカ(県立高崎高校)に入り、早稲田大学教育学部に。
早稲田では、かねてよりの政治家志望が目指す名門雄弁会に入る。すべては弱い者を救うための夢、政治家になるぞ!と。

 下村は経営の才にもたけていた。早大在学中から今日の選挙区になる板橋区で学習塾を経営し自立していた。
「4年生の分の奨学金は要りません」。塾経営がうまく行っているので不要だというのだ。私は9万人の遺児を進学させ世に送ったが、こんな男は初めてだった。「可愛くない奴!」。

でも彼は、自分の腕一本で自分の道を切り拓くのが、男の道だと思っていたのだろう。塾は益々繁盛、31歳のとき都議選出馬を敢行。僅差の敗北だったがこれが後日、薬になる。

 私はかねがね、向う気の強い男でないと仕事はできないと思っているが、傲慢はいけない。
4年が経ち、「塾が好調でおもしろい。40代になってから政治に出たい」。
「バカもん。塾を商売にして金持ちのチョビ髭くわえた中年男に、誰が投票するもんか。お前は若いし、青雲の志があるから票を託するんじゃないか」と、怒鳴った。

 夜の喫茶店で、3時間ぐらい説教したら、「私、やります」と握手の手を差し延べてきた。「それこそお前だ」と握手。運命の一瞬だった。

 好漢、食言を自戒し、国益と国民のため、堂々と論ずべし。君は宰相の器と見た。私たちあしながファミリーのみなさんも、玉井自身も、その日が来るのを信じて、期待したい。(2012・12・26記)