教育を取り巻く状況の続き

先日の続きです。

沖縄県八重山地区で、いったん採択された中学校教科書が竹富町教委や県教委などの介入で決定が覆され、竹島が日本の領土と記載しない教科書に替えられるということが起きました。

文部科学省はこの「逆転採択」を無効としましたが、それ以上の是正措置を取りませんでした。

国は義務教育課程の教科書無償給付に際して、その採択手順を法律で定めており、各地方で勝手にルールを変更することは許されない筈ですが、文科省は「逆転採択」を無効としましたが、時の民主党政権の意向に逆らってまで、それ以上踏み込んで是正措置を取ろうとしませんでした。


現実問題として、このような法令違反が生じた場合には、政府は適切に対処すべきと思いますが、そのためには地方教育行政法の改正などが必要となってきます。

日教組日本教職員組合)の教師の中にも、一部とは思いますが、教師が生徒への教育や面倒をみるべきなのに、選挙などの政治活動に心血を注ぎ、本来のやるべきことを怠っていることもあると聞きます。

これは公教育に対しての国民の期待とは、おおよそかけ離れた行動です。

会社経営も組合の力が強くなると、労使協調により生産性向上という基本的な方向もないがしろにして、会社の収益力を低下させ、結果組合員の給与も上げられなくなったり、雇用も守れなくなったりする場合があります。あげくの果てには企業が倒産すると言った末路を迎えることになる場合もあります。

従業員の立場を守るためというスローガンの下に組合活動を行っているのに、仲間である筈の他の従業員が生活を賭けて働いている職場がなくなってしまうことに痛痒を感じずに、単に闘争の道具としか考えていないのではないかと、不信感を抱かざるを得ない場合もあります。

彼らが関心のあるのは、上部組織であり、自分達です。仲間である筈の個別企業の従業員の幸福を考えているわけではないことを、後に思い知ることになる場合もあるでしょう。
そういう経過を経て、政治家になっている人もいますが、その当時と、政治家になった後でも思いの同じ人には、例え考え方の違う人でも尊敬の念を持つこともありますが、自分の利害で、周囲の状況をうまく利用してきただけなのではと思えるケースを目の当たりにすると、暗澹たる思いになります。


職員組合の力が強い教育界においても、同様のことが言えるのではないでしょうか。

上記で、「仲間である筈の個別企業の従業員の幸福」⇒「子供達の未来を考えた教育」と置き換えれば、
そっくりそのまま、文意が通じます。

まして、
企業活動と異なり、教育の場面ではいろいろな逃げの場、理由付けがあります。

例えば、

教師は聖職であり不可侵の領域

子供達の自主性を尊重する

などなど。

こうした理由付けをすることで、自分達の努力の放棄や怯惰さを誤魔化していると思えるのは、私が天邪鬼なためだけではないと思います。

そのように言われると、外部から何となく批判しにくくなりますが、実際はこういう理由を、不作為を決め込むことに利用したり、思考停止に陥っている場合が多いと思います。
なぜなら、こういう理由で捨て置いた問題は、その後、さしたる進展を見せることがないからです。例えば、いじめの問題などは、政府が対応を取るきっかけを、前安倍内閣の時に行っていながら、その後全く手をつけていないからです。

既存の教育機関では、問題の解析もまともにできていないように見えます。
教育の問題の機能面の分析を行わずに、漫然と問題解決を行おうしているだけで、教えるだけの専門家(教える技能の習得にも懸命になっているとは思えない教師も多いように思いますが)では、今の教育問題には対処できません。

その延長の発想や経験しか持たない教育委員会にも、問題解決ができないことは、今まで多くの子供達が手をさし伸ばしてもらえないまま犠牲になってきていることでも自明ではないでしょうか。
その地位と権力を手放したくないという保身により、今尚子供達が犠牲になっているのに、何の痛痒も感じることもできずに不作為のままでいるような組織こそ、真っ先に組織の改廃の対象にすべきと思います。