ロングテールが嫌いな教育界

書店に行くと、いろいろな雑誌があります。娯楽雑誌、車、住宅、音楽、ブランド小物、美術、ファッション

雑誌の世界では、ロングテールの現象が顕著です。

雑誌の存在意義というのは、趣味嗜好、性別で差別化されたコンテンツだったり、世代間で差別化されたコンテンツであったりと、ある切り口によりセグメントされたコンテンツを盛り込んだ商品と言えると思います。

私が小学生の頃、月刊誌で「小学〜年生」という雑誌がありました。
小学1年生は、雑誌の「小学1年生」を購入して読みます。小学2年生は「小学2年生」の雑誌を読みます。
高学年になると、さすがに「小学5年生」などを読むのは気恥ずかしくなり、例えば「子供の科学」などという雑誌を読んでいました。

いずれにしろ、出版社からすれば平和な時代だったでしょう。
これは、1歳違いで区分けする、究極のセグメント商品とも言えますが、同じ学年の小学生でも、次第に個人差が目立つようになり、同じ年に生まれた子供達でも、何年生などというつかみではくくれなくなっていきます。
女子学生などは、ファッションや男の子により興味を持ちだし、また思考パターンでも大人びて、同世代の男の子に物足りなさを感じる場合も多いでしょう。

〜年生として、くくって楽をしたいのは、出版業界だけでなく、学校も同じに思います。

世の中には、いくら生まれて長い年月が経過していなくても、個体の性格が全く異なるわけですから、〜年生としてくくられることに苦痛を感じる子供もいる筈です。
私は小さい頃からヘソ曲がりでしたので、鋳型にはめられるのが大嫌いでした。特に小中学校時代は学校というものが好きになれませんでした。
今の勤務先の近くに単位制の高校があるのですが、小学校、中学校から単位制だったら、どんなにか自分に合っていたろうかと思います。

学ぶ科目を選択できる能力も、選択以前の基礎能力も身につけていない小学生に、単位制はあり得ないと考える方がほとんどかもしれませんが、
世の中のことを義務教育などでは網羅できるわけがないのです。
現実世界の基礎を網羅できてないカリキュラムなのに、それを必修科目として全員に学ばせようとすることに、無理・無駄があり、歪が出てくる原因にもなっていると思います。

必修科目と選択科目に分けた単位制の義務教育という考えは、その是非と言う面を離れても、教育改革の物の見方として、一つの重要な観点だと思います。

例えば、必修科目の単位は100%、選択科目の単位の80%は6年間の間で取得するなどという基準にすれば、小学校を卒業した時点でバランスを欠いた人間になるとは思えません。
選択科目をどれにしようかと、子供の興味や性格を考えながら、親子で話し合ったり選んだりするのも教育としての一面です。

こういう知識は早めに身につけて欲しいから、1年生から学ぼうか。
これを勉強すると、こんなことが判るようになるよ。
この子はぼんやりしているから、この教科は高学年に持っていった方がよいだろう。
この子は論理性が強いから、理数系を早いうちから重点的に学ばせ、また情感も豊かであって欲しいので、情操教育にも力を入れたい。
等々、
セミオーダーメードのカリキュラムを組むことは、親にとっても子供の教育に深く関わるきっかけにもなります。

皆で一斉にやらないと、皆が不安。
皆で一斉にやらせないと、教師が不安。
皆がやっていることを自分の子供がやっていないと、親が不安。
そんな空気を敏感に察知して、子供達が不安。

それでは、皆で一斉に、同じことをやりましょう!

個性の封じ込めのように思います。


また、クラスの縛りにも問題があるように思います。
生徒の流動性が低い教室内での活動比率が高い教師は、自己研鑽への刺激が低くなりやすいのではないかと思います。
生徒にとっての専制君主となりやすいクラスの縛りを見直すにも、単位制授業という観点は有効ではないかと思います。
単位制で教室での生徒の流動性を図るカリキュラムでは、社交的な子供は良いが、内向的な子供はいつまでたっても友達ができないのではないか、という意見もあるでしょうが、以前も述べたことがありますが、
生徒の流動性が生じにくいクラス割は、内向的な子供にとって辛い状況を生み出しやすいということがあります。
そういうクラスでは、外交的な子供が幅を利かせやすく、クラス内で仲間外れがよりできやすく、いじめに発展する場合があるという報告もあります。


いろいろなタイプの人間と出会い、生活体験を共有することが、その後の人生の糧になるなどという言い方をして反対する人もいるでしょうが、単位制やクラスのメンバーの非固定化は、より出会いの幅を大きくするため、批判には当たりません。

教育でのシステム変更は、子供を実験台に使うのか!という非難が生じやすいので、進みにくいといえます。結果、体を張る人が出てこないで、誰の責任にもなりにくい不作為ということになりやすいのでしょうね。