他人の庭の出来事?

昨日の朝刊には、映画のワンシーンのような写真が載っていました。
ボストンマラソンを走っている人達を後ろから追ったアングルですが、その左手のビルが爆発して炎と白い煙が上がっている写真です。
走っているポーズの人達もいますし、立ち止まっている人も見えます。丁度一瞬のその時の写真だったのが分ります。
映画でこの類のシーンは見たことのある光景ですが、これは現実に起きた写真です。

オバマ大統領はテロによる事件と判断したようですが、
どんな高邁な理由があるにしろ、その標的にされたのは市民ランナーと観客の市民であることが、この写真は示しています。

アメリカ出張に良く行く知人の話では、とにかく最近のアメリカのセキュリテイーチェックは厳しいと言います。スーツケースの鍵を掛けておくと、勝手に中をチェックするために鍵は壊されるそうです。
そのため、鍵をしないでベルトをするようにしているそうですが、そうすると中の物がなくなっていたりするので、貴重品はスーツケースの中には入れられないと言っていました。これは国際線のみではないそうです。
彼の同僚が、たまたまラスベガスのカジノで大きく儲けた際に、ラスベガスを離れる時、儲けたお金を総てスーツケースの中に入れていたということですが、その同僚は空港で地下室に連れて行かれたそうです。機関銃を抱えた兵士に監視される中で、長時間の事情徴収を受けたということです。資金が地下へ潜らないように徹底した調査振りです。
このような普段の警戒態勢を潜り抜けて、今回の爆発事件が起きましたので、関係者はさぞピリピリしていることでしょう。

新聞記事では、アメリカの政策がテロへの標的となっていることを解説して、日本はそんなアメリカと距離を取っているかのような記載が見られます。

産経新聞では、こんな記載をしています。

・・・ だが、財政の崖など、財政危機に伴う共和党との「出口なき消耗戦」を余儀なくされた。大型財政出動にもかかわらず失業率の高止まりや景気低迷で、外交・安全保障に無頓着な「内向き志向」がやり玉に上がった、まさにそのときに起きたのが今回の事件だ。
 9・11後は「世界を一変させた」といわれるテロとの戦いだった。ブッシュ前政権とオバマ政権が背負った課題は「パラダイム・シフト(時代の転換)」と評される。旧ソ連という目に見える敵のいた冷戦時代と違い、環境は複雑化した。
 米国はテロ組織との宇宙空間やサイバー空間での戦いに資金と人材を投入する新次元の“2正面作戦”を迫られてきた。
 国際社会が、冷戦後の米国一極集中からEU(欧州連合)拡大、中国の台頭という多極化へ向かう中、米国が抱えてきた最大の弱点こそ、柔らかい脇腹に刃物を突き立てるかのような市民を狙ったテロなのだ。
 米国は短期的に財政難の克服、中長期的には100年先の国家のあり方を見据え、自由と民主主義、市場主義の普遍化を目指し、新たな国家戦略の策定に乗り出している。そんな中、自国の新世界戦略が常に標的とされていることを今回思い知らされたといえるのかもしれない。


客観的にうまく解説していると思いますが、ちょっと距離を置きすぎて見ているのが気になります。
うまく冷静に指摘している理由付けで、今回思い知らされたのは、アメリカだけなの?
と突っ込みを入れたくなるような、優等生的記事に見えます。

これって、自由主義陣営の先進国のほとんどに当てはまるのではないでしょうか。それを、世界の警察官であるアメリカひとりに、覆い被せちゃって良いのだろうか?

この同じコラムの、始めの方には、

・・・事件は、9・11以降のアフガニスタンイラク戦争を経ても、対テロ戦を主導する米国がテロの標的であり続けている一方、移民政策や妊娠中絶の是非(ぜひ)といった宗教観に象徴される米国社会の分断と憎悪が背景にあると指摘する向きもある。
としています。

ここまで言及していながら、それで、米国の問題にしてしまうのかい!というのが率直な感想です。

個人的には、こうした、自分達だけ蚊帳の外にして眺めようとする日本人のメンタリティーに興味を覚えますが、他の西欧諸国、日本でも同じ問題がある筈と思ってしまいます。


宗教国家であるアメリカは、宗教国であるがために、他の宗教を信仰する移民の受け入れや、中絶の問題、医の倫理観の問題等々について、極めて真摯に受け止め、意見の対立を乗り越えて国造りを行ってきているように思います。

メルティングポットという概念が正確にどういうものか知りませんが、決して呑み込んで溶かしてしまうものではない。いろいろな問題で葛藤・対立を抱えながらも、それらを溶融させているわけではない。そう思います。
その葛藤・対立を内在しながら、共通の言葉や意志を確かめ合って、共生する方策を求めてきたものと思います。
乱暴な国に思うときもありますが、多民族国家の運営には包容力だけで済むようなものではないでしょう。寛容と共に諦め、諦観も国家の構成には必要な横糸だろうと思います。

日本は、自由主義・経済合理性の恩恵を充分に受けてきました。
アメリカ文明の影響も積極的に受け、かつ受け入れてきました。
日本は世界的には仏教国という捉え方をされる場合がありますが、敬虔な仏教信者がほとんどという国家ではありません。アメリカのような宗教国家ではありません。
そのためもあってか、中絶問題などは、アメリカよりも寛大なところがあります。医学の倫理性なども、果たしてアメリカよりも日本の方が真摯に考えていると言えるでしょうか。
日本では、戦後教育が精神的に廃仏毀釈以上の影響で、信仰心を希釈してきたと思います。
ただし、そのいわれを積極的に伝えることなく、僅かに年中行事として残っている、神道の片鱗が、日本人の謙虚さや敬虔さを維持しているように思えます。

アメリカと立ち位置の違う日本は、日本の立場を守ればよいのです。
しかし、テロに巻き込まれまいと思って、アメリカと距離を置くかのような姿勢は不誠実に思います。それだけ、日本は自分の足で立ち上がり、自分の立ち位置を明確にできているのでしょうか。
都合の良い時にはアメリカを利用したり、悪者にしたりして。アメリカに擦り寄って、文明を謳歌しているのが日本ではないでしょうか。

世界の問題を、アメリカを通してでなく、日本が自ら自分のこととして捉えて、自分達の問題として考えて、世界に向けて発信することで、西欧文明が南北問題等を解決できずに紛糾させてしまっている事態を、紐解くための補助線の役割位の役目を果せるように思います。