暴力の萌芽

ボストンの爆破事件容疑者の19歳の弟は逮捕されました。
地元警察責任者は兄弟の犯行に加担した人物は他にいないとの見方を示したそうですが、この件はまだ捜査が続くようです。

テロや殺人の罪で同容疑者は起訴されますが、その際に、公共の安全を脅かす事件として、黙秘権は認めずに取り調べが進められるようです。この辺りは、アメリカの怖い側面だと思います。
容疑者はその状況から黒に近く、多数の犠牲者が出ている状況ですので、黙秘権を使って敏腕弁護士を雇うようなことになると、裁判の行方もどうなるか判らないものになってしまいますので、国民感情としたら、協力者等の存否等を徹底的に調べ上げて欲しいと思うでしょう。

しかし手続きとしては乱暴な話に思います。
アメリカでは犯罪者と思しき被告が無罪になってきた裁判例が大きく取り上げられることがありますが、これはアメリカの裁判制度を問題視すべきことで、被疑者の人権を守ることとは別問題に思います。
状況のクロさ加減に目が行ってしまうと、冷静な判断や状況証拠への恣意的な思い込みがなされる可能性があります。リンチの歴史もあるだけに、民衆の目を意識した暴走が怖いと感じます。

ところで、テロリストの入国や移動に関してのアメリカでの警戒態勢の厳しさは先般触れましたが、今回の容疑者はアメリカ国内居住者の犯行ということになりそうです。
チェチェン共和国のカディロフ首長は「容疑者は米国で育っており、犯行の根源は米国で探さなければならない」とチェチェンと今回のテロは無関係と強調しています。
背後関係があるかどうかは、今後の捜査を待つしかありませんが、

今回背後関係がなさそうなため、日本では、このことを評して、アメリカ社会の問題を指摘する声があがっています。
背後関係があっても、なくても、アメリカ社会は病巣を抱えているような批判の仕方をされるのですね。それだけ寄りかかれる懐が広く存在感が大きいということなのでしょうが、、、


日本人は世界的にも平穏を好む民族かもしれませんが、人間の内には、程度の差こそあれ暴力性を抱えているということがあります。
日本の若者の殺傷事件や、車での歩行者を跳ね飛ばした事件等々、日本の景況感が悪い中で、最近犯罪行為が目立っていたように思います。

中には、犯人が日本人のように見えて、本質は外国人犯罪であり民族的な面で捉えるべきケースもありますが、その視点を除外して考えた場合、アメリカでのテロの要因の芽は日本にも存在しているのだということを認識しておく必要があると思います。
この視点を据えることで、日本国内の問題解決を待ったなしで体を張って進めていくという姿勢が為政者達や官僚にも生まれるように思えます。


デフレ不況は多くの中高年の自殺を招きましたが、若者をも、また窮地に追い込んでいます。

社会には閉塞感が蔓延しました。
若者に対しての職業訓練の機会は、社会的に有意性を持った体制の中で行われていません。
若年者の雇用問題は若年者だけに起因するわけでなく、中高年の雇用維持の問題でもあります。

先進国中最悪の数字(表向きの数字上では)である日本の財政状況を改善するため、年金の支給年齢を繰り延べするバーターとして、雇用の延長を産業界に提示しないと国民に理解を得にくいということがあります。(ここにも若年者の声は入っていません) 
年金支給年齢を先延ばす間の生活費の確保として、企業に定年延長を求めるという提案をせざるを得ない国の政策は、それによる色々なツケを若年層に及ぼしてきました。
ただし、現在の中高年は総じて社内外で豊かな職業訓練を受けている場合が多く、仕事に対しての意識も高く、その就業により社会的な機能を維持・強化する力を持っています。
他方、若年者の場合は、訓練の場を得ることなく、仕事の階層に応じたキーファクターを学ぶきっかけも少なく、単純業務に終始しまいがちという傾向があります。
経営側からすれば、製造業やサービス業の多くは、安い労働力を潤沢に供給してくれる労働供給市場を望んでいる面があります。もちろん、優秀な幹部候補生も採用していきますが、多くは人の頭脳ではなく人手を必要とする場合が多いと思います。

そうした状況の中、日本の教育は、自分が自立して強く生きていくための力を身につける方向で機能しているとは思えません。もちろん、少数の優秀で生命力のある人達は、自らたくましく努力して、自分で能力を高めて成功していきますが、日本の教育を受けて日本の産業界に入っていこうとする多くの平凡な若者は、会社なりに依存して、会社から養分をもらわないと成長できないような仕組みになっています。もちろん豊かな社会に育った中での甘えの問題もあるでしょう。

しかし、会社は若者に養分を与えなくなりました。能力を高められない若者を安く使った方が企業の業績のためになるために、進んで若者を低位に捨て置いているようにさえ見える企業もあります。
多くの企業が非正規雇用者の比率を増やしてきたために、会社に入るハードルも高くなってしまいました。
企業間競争、国際競争を勝ち抜くためにコストを低減させなければなりませんので、企業の目先の論理ではそうなることでしょう。
方やこうした社会の変化に対して、人間をどう鍛えていくかという視点は日本の教育制度には見られません。学ぶ学問の範囲は昔と比べたら随分と広がりましたが、社会に適応できる人間を送りだすという視点は希薄になっていると思います。

今の時代、例えば、商業高校の先生達は、産業界に子供達を送り出す教え子達の門出を祝うべき時に、その将来を不安に思う気持ちはいかばかりかと思います。教え子の巣立ちを、祈るような気持ちで見守っている先生方も多いのではないでしょうか。

ところで、この問題を中高年と若年者との対立の図式にしてしまうと、社会機能の問題が抜け落ちて、問題を狭隘化させてしまい、結局国力の喪失につながってしまうことになります。

社会構造の問題に入り込み、本テーマの焦点がずれてしまっていますが、それがテロとどういう関係にあるのか。今回のテーマです。