統治の心(4)

猪瀬東京都知事の発言を受けた、トルコを訪問した安倍首相の機転に富んだ発言が、好感を持って受け容れられた様子で何よりです。

トルコと言うと、真っ先に、ジンバブエとともに強烈な印象だったインフレの写真を連想してしまいます。
日本経済が落ち込みだしていた頃、トルコは経済政策が行き詰まり、巨額の債務を抱えてインフレを抑えられなくなり、2000年からIMFのお世話になりました。
しかし、その甲斐なく2000年末には金融危機に陥ってしまったのでした。
ところが、回復は日本よりも早く、インフレを鎮静化することもできました。
後に、100万トルコリラ (TL) を1新トルコリラ (YTL)にするというデノミが行われました。
100万⇒1!!  凄いインフレですね。

さて、このトルコ、親日国であることは、日本でも良く知られています。
トルコでは、一時トーゴーという名前を子供につけることが流行ったと言います。
ロシアからの圧力を受けてきたトルコは(当時はオスマン帝国ですね)、同様にロシアの南下政策による圧力を受けて、ロシアと開戦し、ロシアに大きな打撃を与えた東方の小国日本の快挙を喜び、日本海海戦時の連合艦隊司令長官であった東郷平八郎提督にちなんでのことでした。


日露戦争の勝利はトルコ国民だけでなく、ロシアやヨーロッパ諸国に重圧を受けたり占領されていた、アフリカ、インドや東南アジア諸国の国民の心を奮い立たせたと言います。自分達が、どうあがいても太刀打ちできない次元の違いを感じていた欧米人を、アジアの小国、しかも同じ有色人種である日本が、無敵と言われたバルチック艦隊を擁するロシアを撥ね退けたのです。
また、ヨーロッパでもロシアから圧力を受けていた、ポーランドや北欧、中央アジア、更にロシアと同盟を結んでいたフランス国民でさえも、世界にデビューして間もない日本国を驚嘆を持って迎えることになります。

この頃の時間の密度、例えば大山巌山本権兵衛の、世界と自分達への客観的な洞察力と深い読みなどは、明治の時代を持っていまだに後の時代に引き継がれていないように思えます。


さて、日露戦争は1904年〜1905年のことですが、その十数年前に、トルコと日本とは結びつきがあります。
以前記したこともありましたが、和歌山県沖のトルコ船の遭難の件です。

1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本町沖で遭難し587名もの犠牲者を出した海難事故です。


エルトゥールル号の来日は、1887年に行われた日本の皇族、小松宮夫妻のイスタンブル訪問に応えることを目的に、オスマン帝国海軍の航海訓練を兼ねての日本訪問でした。
イスタンブールを出発したエルトゥールル号は、イスラム諸国を寄港しながら、1890年6月7日に横浜港に入港しました。日本ではオスマン帝国最初の親善訪日使節団として歓迎を受けたそうです。

軍艦の乗員の多くがコレラにかかったりと体力を消耗させており、物資も不足していたりで、帰途は困難な状況だったようで、せめて台風をやり過ごしてからという日本側のの忠告を聞かずに、出航しました。

9月16日22時頃に、台風による強風にあおられ紀伊大島の樫野崎に連なる岩礁に激突し、座礁しました。
エルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし沈没してしまったそうで、司令官オスマン・パシャをはじめとする587名が死亡または行方不明になるという、大海難事故になってしまいました。

岸に流れ着いた乗員は灯台守に遭難を知らせると、その報を聞いた大島村(現在の串本町樫野)の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たりました。
この時期、台風のため海が荒れていましたので漁にも行けない漁民は、自分達の食糧も十分ではなかったと思えます。しかし、救助された乗員たちに、卵やサツマイモ、それに非常用の食糧でもある鶏を提供したり、衣類を提供したりと、懸命に乗員たちの救護を行いました。
灯台や学校、お寺などで手厚く看護されて、生還できた乗員は69名になります。

翌朝、村長は神戸港の外国領事館に生存者を神戸の病院に搬送させるよう援助を求めて手配するとともに、県、国へと連絡されました。
この事件の報を受けた明治天皇は大いに心を痛められ、政府として可能な限りの援助を行うよう指示されたそうです。
新聞は大きく報道し、多くの義捐金・弔慰金が寄せられました。

さて、69名の生存者は、品川湾から日本海軍の「比叡」と「金剛」により、1891年1月2日にイスタンブールに移送されました。
その船には、14年後にバルチック艦隊との日本海海戦の勝利の立役者になる秋山真之も少尉候補生として乗り組んでいたそうです。