介護の観点から補助線を引いてみると

介護保険制度は2000年4月から導入されています。
国民に広く適用されるため当たり前のことと感じやすいからか、自分が傲慢なためか、普段、国の制度をありがたく思う機会はあまりありません。
しかし、この介護保険制度のお蔭で、介護の必要な高齢者を抱える家族の人生は様変わりしたと言えます。

私は物心つく頃には、既に母方の祖父と同居していました。
気骨のある昔堅気の祖父で、自分に対しての厳しさや、私には欠けている数々の人間としての美点を持っている人でした。今でも祖父を思い起こすと、自分の背筋が伸びる気がします。
母は、祖父が亡くなる前の約11年間程は、祖父の介護でほとんど外出らしい外出ができませんでした。もちろん旅行など行ける状況ではありませんでした。
今から思うと、祖父の面倒を母の肩に押しつけていたわけですが、その頃それを特に不合理なことと咎め立てする空気はなかったように思います。女性が大変な時代だったのですが、私の郷里では、それが当然視されていたと思います。

介護保険制度ができたころの2000年頃は、2020年には認知症高齢者は300万人に達するだろうと言われていました。
しかし、昨年の2012年には認知症の高齢者は300万人を超えています。
2025年には、470万人に達するとみられており、高齢者の12.8%が認知症になると想定されています。

今のように寿命が延びていなければ、顕在化しにくい問題だったでしょう。
人間の寿命が伸びたため、人間が自立したまま生涯を終えられなくなってしまったというのは、人間の文明が、生物体として、生態系のアンバランスを生みだしてしまっているのだろうかと思います。


家族としてはありがたい存在の介護保険制度ですが、自分が今度はこの制度の恩恵を受けなければならない時を考えると、介護保険制度に対するニュアンスは変わってきます。

この制度の存在が国の厳しい財政状況の大きな比重を占め、若い人達への生活を圧迫しているのを知れば、科学の進展による人為的な延命が、より若い世代の生命が輝くべき機会を損なうことにつながってしまっているのではないかと思い、軸足の置き方を少し変えて、制度にとどまらず、人生観を考えてみる必要があるように思うのです。

高齢者のケアとそのための政策上の予算付けを制御するということは、人道的に踏み込みにくい問題と思います。また、病気や老いに対しては科学が究明する余地が高いためか、国も積極的に取り組みやすいテーマ性があります。

一方、若い世代に対するケアは、それが例え不作為により、ないがしろにされたとしても、問題視されにくいということがあるのではないでしょうか。実際は、ここにも由々しき人道的な問題が内在していてもです。


この問題を、世代間の対立的な構図とすることなく、文明論としての観点から、人間の生き死にに対して明りを照らすことができないものかと思いますが、価値観が多様になり、その上でそれぞれが強烈に自己主張するようにもなり、その主張に基づく分配の問題も、公平性を保つのが難しくなると、不作為に逃げ込みたくなるのも責められないように思ってしまいます。
自分の考えを、所詮一つの価値観にこだわった上のものでしかないと、相対化して矮小化させたくなるのと似ています。