リーダーの存在と平等ということについて

私は長くアメリカの食品にはあまり馴染めませんでした。

テーマパークなどの子供が行きたがる場所には、輸入物のお菓子類をおいてあるお店があります。
そうした子供向けのお菓子類は、子供が手に取るように気を惹くことを狙ってか、カラフルで見ていて楽しくなるものが目につきますが、色彩が鮮やか過ぎて、きっと体に良くない着色料や香料、保存料がたくさん入っているのだろうと思い込んでいました。
自分の子供が小さかった頃は、子供が例え興味を示しても、色鮮やかなものは買い与えませんでした。
「体に良くないからダメだよ」などと、何の根拠もないのですが自分の感覚で制限していました。
その当時は、見た感じ、色使いが日本の食品と明らかに違いましたので、子供も必要以上に欲しがることはなかったように思います。

アメリカでは子供が成長すれば、今度はジャンクフードと呼ばれる食品群に囲まれた生活。
医療関係の財政の圧迫や貧困の問題もあり、ジャンクフードや炭酸飲料の過剰摂取により、アメリカでは肥満が大きな社会問題になっています。

また、アメリカのアルツハイマー発症例の多さは、食品や環境の基準の違いが大きいからではないかなどと、自分は根拠のない思い込みを抱いています。

民主党政権は、米国通商代表部から輸入規制の緩和圧力を受けて、生後20ヶ月以下の若い牛に限定していた輸入制限や国内の検査体制を見直すことを決め、日本政府から諮問を受けた食品安全委員会は、アメリカ産の牛肉の輸入条件を生後30ヶ月以下に緩和する方向で手続きを進めていました。

今年の4月には国は、自治体などが行っている国産牛肉の牛海綿状脳症(BSE)の検査への補助金を止めたいとの報道がされていましたが、昨日、30ヶ月超から48ヶ月齢超の牛の検査へとアメリカ牛の検査方法も変わるとの報道がありました。
管轄省庁の意向もあるでしょうが財務官僚の思惑が強いのでしょう。官僚は国内検査の費用負担の削減を行いたいのですね。
日本国内では月齢20ヶ月を超える牛は全頭、20ヶ月以下でも行政の費用負担で全頭検査が行われています。この費用負担をなくしたいために、アメリカからの輸入圧力をうまく利用したというのが実態なのでしょう。
官僚は、自分の職務を全うしようと考えて、日本国民の利益を考えずに他国の利益に乗っかろうとすることがあります。
中国や韓国の利益に乗ってきたと思える省庁もありますし、マスコミなどはその先陣をきってきたとも言えます。
他方、アメリカの利益に乗ってきた関係者は、その期間が長かっただけに数多いと思います。
ウエーバーの指摘を待つまでもなく、日本の優秀な官僚の能力の限界も、こういうところに出てきます。
それをコントロールするのが政治家に求められますが、日本の政治家もご多分にもれず利に目ざとく、アメリカの利益に便乗して、自分達も太ることを求めるのは官僚と変わりません。

国民はというと、社会に出るまでは、それを笑えても、社会的責任が重くなるにつれて、こうしたことを指弾できる人も少なくなってしまいます。民間企業では自社の利益のためには、法にさえ触れなければ良しとする会社も少なくないでしょう。
順風満帆な時はコンプライアンスの重要性を社員に繰り返し伝えますが、荒波を被ることになると、声に元気がなくなりトーンは変わってしまいます。
私などそれを責められませんが、かといって、それを是認してしまってはまずいのです。

さて、イギリスは階級社会とよく言われますが、イギリスのリーダー像と階級とは切っても切れないものです。
リーダー教育を受けた支配階級のエリート達は、精神の陶冶により人格を築いていきます。社会的にもリーダーとして振舞うことを求められます。

他方、日本の社会ではこうした階級の概念は認められず、平等さを求められます。実際は平等などあり得ないのですが、その平等を求める空気はリーダーとしてではなく、低位に平等を強いるような空気を感じます。

日本の教育界にはリーダー教育の概念もありませんので、品格は高きから低きに流れるかのように落ちていきます。かろうじて儒教的な倫理観や神道の影響の残滓のためか、国民の中には魂を高みに保とうとする人達も少なくありません。そうした人達のお蔭で国の形が保たれているようなところがあるように思います。

民主党政権時代には、毛並みの良い政治家で経済的に不自由しようもない人がリーダーになったこともありました。国民のために身を粉にして働いてくれるものと期待していたら、リーダーとは似ても似つかずに、単に世俗離れしているだけで、政治や世の中の勉強もろくにしておらず、混乱を招いただけで辞任する羽目になったり。こんな有様では、リーダー教育の必要性が論じられることもないでしょう。

自分を厳しく律することができない人に、国を律することなどできないと思いますが、そのための技術論という切り口からでも、教育の重要性が論じられるようにならないものかと思います。
骨格をかたちどる力・機能が欠けているように思えます。