静岡県知事選

今日は静岡県知事選が行われました。

既に、民主党と連合静岡の組織票をバックにした、現職の川勝平太氏(64)の再選が確実だそうです。

知事選での争点の一つに、中部電力浜岡原発(同県御前崎市)の再稼働の是非の問題がありました。
川勝氏は、民主党色を強く感じさせる、県民投票で判断するとの主張をされていました。

県民投票の実施は、以前沖縄で米軍基地の整理縮小及び日米地位協定の見直しに関して行ったことがありました。
古い記憶ではないように思っていましたが、1996年のことだそうで、もう一昔前の出来事なんですね。

政策を提示した選挙で選ばれた国会議員が、政策の実現に当たって民意を問うという姿勢をとる場合があります。
私には、何か国民に阿るようなその姿勢が、単に政敵やマスコミを論破できないためであり、国民に分かりやすく語りかけ理解してもらうという努力が欠如しているように思え、好ましく思えません。
しかし、国民の情報操作で大きな影響力を持つ日本のマスコミの、そのレベルがジャーナリストとしての機能から乖離してしまっているという現状を考えると、いたしかたないとは思います。

さて、今回の県知事選の場合、現職が県民投票で判断するという主張をされていました。住民にとっては自分達の声を聞き入れてくれる民主的な地方政治が行われると感じるのでしょう。

しかし、自治体の長が原発問題をどうとらえて、その安全問題に対しての解決策や、代替エネルギーと産業の活性化についての方向性をどう考えていくのかという考え方を提示した上で、住民投票を行い民意を政策遂行の上での参考として位置付けていくのでしたら話が分かるのですが、
浜岡原発の再稼働の是非を住民投票によって判断するというのは、はたして、それを政治と呼ぶべきものなのだろうかという基本的なところで疑問を感じます。

まさか、住民投票に最高の意志決定権限を置いている訳ではないと思いますが、、(もしそうなら、議案ごとにネットで住民の意思を確認するシステムを作れば、県会議員や、市会議員の多くは不要になってしまいます)
この政治スタイルは、恐らく、簡単に合成の誤謬を生むことになるでしょう。

沖縄県民投票の成果は、沖縄以外の地域で生活している国民に、沖縄の状況を把握してもらい、日本の国が享受している安全・安心といった平和の担保が、沖縄県民の犠牲の上に成り立っているという事実を示したということが大きかったと思います。その結果、沖縄の現状がそれによってどう変わったかというと、それは別次元の問題だと思います。
原因は県民投票とは直接関係ありませんが、今後フィリピンへ米軍配置の比重が移るということはあるでしょうが、日本国内の基地の移転は、あくまで県内での方向で進んでいます。

他方、中部電力浜岡原発の再稼働の是非を県民投票で判断するというスタンスは、そのウエイト付けいかんでは、中部電力の行動・意志を選挙結果が封じることが可能になるという意味で、沖縄の問題とは大きく異なってくるように思います。(もちろん、中電が静岡県を訴え、係争に発展するということもありますが)

日本の社会、というか、地方で生活していると、政治学とかを学ぶきっかけがなかなかありませんので、感覚的な印象でしかないのですが、この県知事選の争点を考えてみると、政治の劣化の問題に深く関連してくるように思えます。