彼我の認識

今日のタイ語教室はいつもの授業と異なり、一般の方にも開放して、磯部博平氏による、山田長政の歴史についての講座を行いました。
いつものメンバーに加え、初顔の方たちも多く、内容もとても面白いもので、21:00までの2時間があっという間でした。

私は山田長政は静岡の人と思っていましたが、伊勢出身説、尾張出身説、長崎出身説もあるそうです。

しかし、駿府出身説が圧倒的に有力で、
駿府馬場町の染物屋、津国屋九左衛門の子供で、母親は藁科村の寺尾惣太夫の娘と考えられています。
この藁科村は、藁科川右岸にある今で言う富厚里(ふごうり)で、富厚里は「服を織る」から転じた地名のようです。

私は静岡に来て、最初に「富厚里」という字を見たときに、何と読むのか見当がつきませんでした。何の脈絡もありませんでしたが、厚岸を連想し、きっと自分とは世界の違う文化を持つ地域に違いないと感じました。

藁科地域は、左岸に広がる服織(はとり:現在は「羽鳥」の文字を当てています)という地域があり、この服織も、服を織ることに関連しています。

もともと、この地域は秦一族の機織部が住みつき、養蚕業や機織りをしたことから、地名もそれにちなんだものになったのでしょう。
この他、静岡には麻機(あさばた)などの地名もあり、外来人が古くから住み着いていたのがわかります。

自分は静岡出身ではありませんが、自分の小学校の同級生に秦(はた)という子がいました。秦君とは同じ町内で同じ通学班でした。中国人と言われていましたが、言葉の壁は全くなく、普段何の違いも感じていませんでした。
また、小学生の時には、明らかに体格が違い肌の色も違う子供が転向してきたこともありました。その子は1学年上でしたが、身体能力が凄まじく高く、運動会や陸上競技の時間には、世の中には次元が違うレベルでの身体能力があるんだということを、強く感じさせました。強烈な運動能力を持ったこの先輩は、学校中のヒーローでした。
今振り返って考えると、いろいろな地域でいろいろな人が生活に溶け込もうとしていたのだなと思います。

さて、山田長政駿府の豪商の、滝佐右衛門、太田治右衛門の船で、堺から長崎に渡り台湾経由で1612年にタイに渡ったといわれています。長政23歳の時だそうです。

タイではアユタヤ王朝時代で、最盛期のアユタヤには、約3千名の日本人町の他に、40カ国もの人が居住する国際都市で、国別に居住地域を分けていたようです。
アユタヤはバンコクから北へ64キロメートルほど離れていますが、タイランド湾に注ぐチャオプラヤ川の深さが10〜20メートルもあり、当時の外洋帆船もアユタヤに入港できたため、貿易面でも栄えました。

長政は、貿易で成功します。
日本人町の頭領となり、軍事面でもスペイン艦隊にダメージを与えたり、アユタヤを攻める敵を日本人軍は打ち砕く等の活躍をしたため、アユタヤ王の覚えもよく、長政は王の側室を妻にするなど、政治面でも発言力を高めていったようです。(当時アユタヤは外国人町ごとに、外人部隊を傭兵として使っていたそうです)
そんな長政を外国勢力は面白くなく、特にオランダは日本との貿易で利を得ていましたが、長政はタイから日本への輸出で、オランダの商売を圧迫するという結果をもたらします。

国王が変わったときに、長政は新王の陰謀で毒殺されたと言われていますが、足を負傷した時に医師に毒を塗られたために死亡したそうです。陰謀には違いないですが、外国勢力が長政の強勢振りに反感を持ち、足をすくわれたのではないかとも言われています。
長政が力をつけ、貿易を伸ばすことは、外国勢の商売を押さえることになってしまいます。
長政の死を待って、新王は日本人町を攻撃して滅ぼします。
海外からの侵略者と勇敢に戦ってきた日本人はアユタヤ王朝にとって利用価値が高い筈ですが、それを滅亡させるというのは、新王に知恵を付けていた勢力があったと考えるのが自然に思えます。

国内の日本人町を滅ぼしたアユタヤは、ミヤンマーのアラウンパヤー王朝に滅ぼされます。


長政は、貿易、文化、外交、軍事、政治にと、大いに活躍したことが、タイ、オランダ、日本の記録に残っているそうです。
しかし、タイでは長政のことを知る人は3割くらいしかいないそうです。そして、長政というと、活躍した分野は軍事面のみという印象を持っているのがタイの国民。そのため、長政に対しては、あまり良い印象を持っていないそうです。時の政権にうまく取り入った軍人という印象なのかもしれません。

誤解の面もあるでしょうが、権謀術数で情報戦を制しようとする海外勢に対して、情報戦の重要性を理解しないで無防備でいる今の日本と似ているところがあったのでしょうか。


ところで、明治の時代に、山田長政記念碑建設資金を集めるために、清水次郎長が大相撲を駿府城跡で開催したことがありました。ところが、主催の一人がその収益金を持ち逃げしたため、この目的は達せずに、次郎長も大いに落胆したそうです。

いつの時代にも、人の厚意を私利私欲に利用しようとする輩がいるものですね。