西部劇の魅力(2)

子供の頃に熱中して見た、騎兵隊とインディオとの戦闘の物語は、騎兵隊に助けられる白人に感情移入をするようなストーリーが多かったと思うのですが、戦闘になる原因は、その当時でも、インディオ達が住んでいた領域に進入してきた白人と、先住民族であるインディオ達の覇権争いだということは子供ながらも判断できていたと思います。侵略者は白人達なのです。

しかし、人物や場面設定が、
か弱い白人女性や身ぎれいな紳士の乗った駅馬車インディオに襲われたり、
騎兵隊は規律正しく紳士的で正義の味方的な存在に描かれている場合が多かったり、
力の強い正義と、醜悪な存在として演出される先住民族との対立図式でとらえがちになったりと・・・

こうした映画やドラマを見るアメリカ人は、自分達の欺瞞や醜悪さに気づかされることなく、安心して画面に興じることができたことでしょう。

よくよく考えれば、騎兵隊の兵士が総て紳士的で正義感の強い筈はありません。
なぜか、日本では戦勝国を美化するような自虐的・隷属意識が根強くあります。普通の国では敗戦から多くのことを学ぶ筈ですが、変にバイアスのかかった日本では長らく思考停止の状況に。
また、戦後海外の国々の中で、私達が手にすることのできる情報が一番多かったのはアメリカでしょう。アメリカのホームドラマや西部劇、アメリカンポップスやジャズ、ロック、ファーストフード等々、夥しい情報の波もあり、アメリカは遠い国ですが、いつも身近な存在なために、親密な感情を抱きやすいという背景があります。そこに移り住んだ荒くれ者だった開拓者も、紳士として見やすいというハロー効果も生じやすいと言えます。

話が本筋から逸れそうですが、
まともな国であれば、敗戦を経験すれば、今度戦争をするときは絶対負けないぞ!位の気概を持つのが当り前な精神構造ではないかと思うのですが。(こんなことを言うと日本では袋叩きにあってしまいますが)
なぜか、日本ではまるで奴隷のような委縮した精神で、戦争のことを語るようになります。
そうしないとまるで不遜であるかのようです。平和さえ唱えていれば、それで良しとする、思考停止型知識人の多いこと。

風化しないうちに戦争のことを積極的に考えることが反省につながる筈ですが、懼れて触らず的な態度で思考停止状態で何十年も過ぎてしまい、大方の関係者はいなくなってしまい、風化どころか、後から事実を歪曲されたりで、年を経るにつれ何が何だか分からなくなり、脚本家の書いたフィクションがまるで史実のように思われたり、大新聞社のでたらめ写真や報道が史実を曲げて伝わり、世界の国々に真実として受け止められたり。

戦争に関係した生き残った方達の多くが戦争に関して口を開こうとしないのは、
敗戦になった瞬間に、手のひらを返したように、自分達は主戦派ではなかったとか。
戦意を煽って軍部の御用記事を配信していた筈の大新聞社が、反省することなしに、ずっと平和主義者であったかのように。しかも、後には北朝鮮や秘密裏に膨大な自国民を殺戮していた中国共産党を信奉するような態度をとったり。

戦死した人の霊を敬い鎮めるのが、まるで平和的でないように批判する、マスコミや声の大きい自国民がどこもかしこにも目につけば、心のドアを閉めたくもなるでしょう。
こんな状況では、戦争に直接関わった方々が、ただでさえ重くなる口を開くことは、余程のことがなければ考えにくいと思います。
この国を守るために命を賭して戦ったり、窮乏生活を耐え忍んで支えてきた人達の思いに感謝することは、人間としての最低限の精神の発露だと思うのですが。
そうした自然な感情が憚れる国とは一体何なんだろうかと思います。